ついに客も降参して、遣手や若い者に頼んで引手茶屋を呼んでもらい詫びを入れた。
引手茶屋の仲介で盃を交わし、遊女や遣手、若い者に祝儀をあたえたうえで、客はようやく帰宅を許された。
あまりの理不尽さに江戸幕府が動いた
倡家の法式は客からすれば理不尽な仕打ちとしかいいようがないが、遊女の意地の張り合いもあり、横行していた。妓楼間の対抗意識もあろう。
『古今吉原大全』(明和5年)もこう述べている――。
女郎、客をつけ、とらえ、或<あるい>は髪をきる等の事を法式とす。
しかし、さすがに目に余るものがあったようで、幕府は寛政7年(1795)の通達『新吉原町定書』で、「不法之儀」として、そういう風習をやめるよう命じた。妓楼もこれに従ったようだ。
戯作『竅学問』(享和2年)で、不実な客の髪を切ったり、坊主にしたりする制裁について、
「わっちらがとこじやァ、そんな事をいたしいすは法度(はっと)でおざりいす」
と、遊女が述べる。たとえ遊女がいきり立っても、妓楼は客に制裁を加えることを禁止していたのだ。
倡家の法式は寛政、享和、文化、文政と時代がくだるにつれ、有名無実になっていった。
すでに岡場所や宿場の女郎屋が競争相手として台頭し、男たちはそちらに移りつつあった。もはや倡家の法式をふりかざしていたら客が去る時代になったからだった。
路上で4、5日晒し者にする「桶伏せ」
金がないまま登楼した客への制裁として、桶伏(おけぶ)せがあった。
こらしめのために往来で、四角な窓をあけた大きな桶をかぶせて閉じ込め、晒(さら)し者にする。実家の誰かが金を届けにくるまでは、4日も5日も外に出さない。その間、食事だけはあたえたが、夜具などは差し入れず、大小便もその場でさせるという残酷なものだった。
だが、実際に桶伏せがおこなわれたのはごく初期のころである。その後は、付馬(つきうま)や始末屋が処理するようになった。