似た名前の制度が次々に出てきて住民は混乱
その後も津島の避難指示はなかなか解除されなかった。
それどころか、政府は対策を小出しにした。まず、地元町村が再生計画を策定して首相が認定すれば、特別に除染を行う「特定復興再生拠点区域」の制度を設けた。これに基づいて2023年3月31日、役場の津島支所がある道路沿いなど、ごくわずかな場所の避難指示が解除された。
次は「特定帰還居住区域」の制度を導入した。似た名前の制度が次々に出てきて住民を混乱させるのが、14年間の原発事故対策の特徴だ。この制度でも新しい計画が首相に認定されたら、「2020年代にかけて」帰還できるようにしてもらえる。ただし、帰還したいと申し出た住民の宅地やアクセス道に限った除染となり、わずかな土地の除染しか行われない。
「家だけぽつんと除染されても、周りが立入禁止の帰還困難区域だらけだったら、現実的に人が住める環境なのか。津島は農業地区だったのに農地の除染もされない」と憤慨する人は多い。
こうして先の見えない避難が続く中、居場所を失って、命を落としてしまう人もいる。馬場さんが笑顔を写した人々が消えていくのである。
津島には人のつながりがあるから住民が元気なんだ
馬場さんが「笑顔」を写したいと考えたのは、2001年に小学校を退職し、カメラの勉強を始めた頃のことだ。
浪江町内の友人宅から帰る途中、地べたに座って草むしりをしている高齢の女性を見かけた。
「草むしりぐらいしかできないんだ」。女性はわびしそうに言った。馬場さんは「そんなことはありませんよ」と思わず口に出した。「草むしりは重労働だし、大変な作業じゃないですか。家族は感謝していると思いますよ」。自分でも経験していたことなので、言葉が自然に続いた。
この時、「人は人の役に立つことが何よりの生きがいなのだ」と感じた。その前提として「津島には人のつながりがあるから住民が元気なんだ」と分かった。そうした目で津島を見ていくと、実に生き生きとした高齢者が多かった。
稲刈りの写真は、つながりが生んだ笑顔の写真の代表例だ。
馬場さんは常にカメラを持ち歩いて、津島の人や自然を撮影した。
健康診断の資料などを各戸に持ち歩く「保健協力員」も引き受けていたので、巡回中には様々な場面に遭遇した。
馬場さんが車で走っていた時、バイクに大量のウドを積んだ高齢の男性を見かけた。車を止め、「写させて」と駆け寄る。
「山で採って来たの?」と尋ねると、男性は「自分の畑で作ったんだよ」と言った。「今から友達にあげに行くんだ」と破顔一笑。撮影している方まで楽しくなる笑顔だった。






