避難先で獅子頭を造り始めた元理髪店主

 馬場さん自身、カメラで津島の記録を残すという使命感がなければ、避難後の人生はどうなっていただろう。「カメラがあってよかった」としみじみ語る。

 そうした中、避難先で獅子頭を造り始めた人がいる。

「田植踊(たうえおどり)」という伝統芸能がある。五穀豊穣などを願う舞いだった。避難で存続の危機に瀕したものの、東北学院大(宮城県仙台市)の学生らが伝承活動に加わっている。

ADVERTISEMENT

獅子頭を製作する(写真集より)

 田植踊には「神楽・七芸」と呼ばれる余興があり、練習には獅子頭が必要だが、本物を使うわけにはいかない。そこで津島で理髪店を営んでいた人が、獅子頭の製作を始めたのだ。

「練習のために一つ、自分のために一つ作ったそうです。手先が器用なんですね。木彫りのお面も作っています。こんなふうに避難先で自分を保って行ける人は多くありません。そんなこの人も、本業の理髪店では新たな地域への参入は難しいと話していました。『行きつけの店ではなく、自分の店に来てほしい』とはなかなか言えないのです。このため、津島から避難した人から連絡があると散髪をしているという話でした」と馬場さんは説明した。

獅子頭を製作した元理髪店主。「こうやって自分の生き方を見つけられる人は少ない」と馬場靖子さん

地方紙の亡者欄には細かく目を通す

 避難先でのつながりという面では、津島の若者にも大きな変化があったようだ。

「津島には保育所、小学校、中学校が一つしかありません。多くて1学年30人台、だいたいは20数人だったので、中学卒業までずっと一緒です。このため生涯つながっていました。津島に帰省すればすぐに分かり、2軒あった飲食店で同窓会が始まります。ところが、帰省する故郷が避難でなくなりました。仲がよかった子同士ではどこかに集まっているかもしれませんが、津島に行けば消息が分かるということもありません。私も以前なら、お母さんに『元気にしてる?』と話しかけられたのに、それもできなくなりました」

 教え子どころか、一度避難すると、近況を尋ねるのが難しくなる。

「避難者には必ず変化が起きています。それがいい変化か、悪い変化か分からない。多くの人が体調を崩したり、亡くなったりしているのに、『元気?』とは尋ねられません。相手が『こうしているんだ』と話してくれて、初めて話題にできるのです」。馬場さんは悲しげだ。

 このため、馬場家では福島県に2紙ある地方紙のどちらも購読していて、亡者欄には細かく目を通す。浪江町役場発行「広報なみえ」の「お悔やみ」欄のチェックも欠かせない。

国道で車が故障した。近寄ったら馬場靖子さんの教え子だった(写真集より)

 しかも、津島の人に会えるのは誰かの葬式程度だ。

「葬式も新型コロナウイルス感染症が流行してからは、参列者が少なくなりました。皆が早めに焼香を済ませて帰るようになったので、会える人も減りました。もうずっと会っていない人もいます。あれほどつながりが深かった津島の人々がバラバラになってしまったのです」

 暮らしに笑顔があった津島。

 もはや写真集の中にしかないのだろうか。

写真=葉上太郎

次の記事に続く 笑顔と色が消え、無表情になった原発事故被災地…元先生カメラマンが「自撮り」で伝えたかった「被災した私」