小学校の教員を退職後、福島県浪江町の津島地区に住む人々を撮影してきた馬場靖子さん(83)。
『あの日あのとき 古里のアルバム 私たちの浪江町・津島』(2024年10月15日、東京印書館発行)に収録された写真は、東京電力福島第一原発(大熊町・双葉町)の事故でバラバラになる前の住民の笑顔がとても印象的だ。
だが、原発事故による避難後、馬場さんが撮影する写真は大きく変わった。「自撮り」が増えたのである。しかも笑顔はない。表情がないとい言った方が正しいかもしれない。
なぜなのか──。
震災後に初めて「撮りたい」と思った日
いつもカメラを持ち歩いてきた馬場さんが、全くシャッターを押さなかった期間があった。
東日本大震災が発生した2011年3月11日から約2カ月間である。
原発では4基の原子炉建屋が相次いで爆発・火災を引き起こし、津島にも目に見えない放射性物質の恐怖が迫っていた。住民はバラバラに避難し、馬場さんも約140km離れた会津地方にある同県喜多方市の実家に身を寄せた。
この間、周囲を撮影をする余裕などなかった。シャッターを押す気持ちにさえならなかった。
その後、初めて「撮りたい」と思ったのは、津島を脱出してからちょうど2カ月が経過した5月15日のことだ。
避難先の喜多方市から最低限の荷物を持ち出そうと津島に戻った5回のうち、最後の日だった。
自宅に別れを告げ、隣町との境にある緩やかな峠に向かう。これを越えると、もう当分は帰らない。ふと道路の横に視線を移した馬場さんは、美しさに目を奪われた。
花がいっぱいに咲き乱れていて、なだらかな山には新緑が萌えていた。
放射性物質に汚染されて、人は消えても、自然は芽吹き、花は相変わらず彩り鮮やかに咲いていたのである。
思わず車を止めてシャッターを切った。
津島は四季の移ろいがはっきりしていて、花が美しい。避難で凍てついていた馬場さんの心は少し溶けた。
津島の変化を記録しておかなければならない
馬場さんはこの写真を撮った後、再びカメラを構えるようになった。津島の人が入った仮設住宅を訪れるなどして撮影を始めたのだ。ただ、人が消えた津島を写す機会はなかった。
放射線量が高いと分かっていたので、わざわざ帰らなかった。自宅には2年以上、一度も足を踏み入れることはなかった。
そんな2013年7月、津島を訪れる機会ができた。夫の績(いさお)さん(80)の弟が、埼玉県から墓参りに来るのに同行することになった。
これがきっかけとなり、馬場さんは津島に立ち入るようになる。津島はどのように変化したのか。そして変化していくのか。記録しておかなければならないという気持ちが頭をもたげた。