自宅の放射線量を計測すると、地面に近い場所ではあったが、34マイクロシーベルト以上の値を示して驚いた。福島で汚染された地区の中でもかなりの高さだ。
「自撮り」写真で目立つのは、馬場さんが花を持ち歩く姿
自撮りの馬場さんは、避難後の津島の惨状を淡々と暴き出していく。
馬場さん夫妻は2013年12月、自宅から50kmほど離れた福島県大玉村に中古住宅を買った。屋内には震災でできたひび割れが大きく残る。直していない。「私達が余生を過ごすだけだから、それぐらいは大丈夫でしょう」と馬場さんは語る。実質的にここが終の住処になるのだろう。
津島の自宅には、母屋と農業用倉庫が二つ、そして牛舎があった。これらは、倉庫一つを残して全て解体した。
倉庫の中には2年しか使わなかったコンバインが入っている。績さんが農業を継ぐため、会津から2人で戻って来た時に買った年代物のトラクターも健在だ。
績さんは「まだまだやれる」と言うものの、将来の見込みが立たない。
「自撮り」写真で目立つのは、馬場さんが花を持ち歩く姿の多さだ。
花は共同墓地に供えるためのもので、墓参りが「帰宅」の理由のかなりの部分を占めていることが逆に分かる。
墓地では馬場家の墓以外にも、線香を上げて回る。すると、墓参りに帰った人の痕跡が残っている。「ああ、あの人が来たのだな。元気にしているのかな」などと想像を巡らせる。
そうして再々墓参に戻る人がいる一方、「避難先」に代々の墓を移した人もいる。「自分がいなくなった後、子供らが墓参りをする時、遠方の津島まで行くのは負担だろうから」という配慮からだ。そうなると、いよいよ故郷との縁が切れかねず、辛い選択になる。
日本リアリズム写真集団に組み写真を応募
馬場さんは「皆、帰りたいと思っていても、帰れる状況ではありません。そのうちに廃村というか、棄村にされてしまうのではないかと感じます。そうした現状を多くの人に知ってほしいと思うようになりました」と話す。
だが、写真一枚では伝え切れないと感じた。そんな時、日本リアリズム写真集団の公募展は組み写真で応募するのだと知り、2016年に初めて応募した。
避難から2カ月後に荷物を取りに帰宅した時、道路の横で目を奪われて撮影した美しい花々。そこに住んでいた女性が仮設住宅に入っていると聞いて、プリントを見せに行くと、女性は食い入るようにして写真を見た。他にも草でぼうぼうになった家の庭にぽつんと咲いた紫のキキョウ。帰還困難区域に指定された津島では自宅に行くにも申請が必要で、ゲートを通るにはかなり厳しくチェックされた。こうした理不尽さなどをテーマに、組み写真にして応募したのだった。
他にも、浪江町の中心部の避難指示が2017年3月31日に解除された後、人の気配がしない市街地の組み写真を「帰還率0.8%」というタイトルで応募したことがある。













