なぜ自撮りを始めたのか
同年10月には1人で向かった。
自宅の前で車を止め、防護服や雨合羽をまとって、玄関へ向かう坂を上がる。両脇はツツジやサツキでいっぱいだったのに、ササが侵出するなどしてぼうぼうになっていた。
その坂を上がる後ろ姿を、三脚で「自撮り」した。わびしい背中が写っていた。
この時、なぜ自撮りをしようと思ったのか。今でもよく分からない。後に「写真を撮影する人としては、珍しい行為だ」と、多くの写真を専門とする人に言われた。
写真集には自分なりに整理して考え、次のように記した。
「その荒れゆく姿を見るたびに色んな感情がわき起こる。それは自分がここの住民であり、数年前まではここで当たり前の暮らしをしていたのだ。それが何の心の準備もないまま、追い出され、ここに来るためには色々な手続きをし、時間も制限され……などなど考えると、疑問だらけ。
もしかして今建っているものも、いつか壊し(いや壊れ!)何もなくなってしまうかも知れない。
その時、『あれ、ここにあったものはどこに行ったの?だれが住んでいたの?』と人が住んでいた証もなくなってしまう。
自撮りを始めたのは『ここは私達が暮らしていた所です!』という自己表現の気持ちからだった。
この光景がもうすぐ無くなってしまうと、今あらためて考えると非常につらいものがある」
「要するに、震災は自分に起きた出来事です。自分事として捉えた記録を残しておきたいという気持ちがありました。ただ、最初に自撮りをした時には、そこまでの意識はありませんでした」と明かす。
人がいなくなった。ならば、自分を撮るしかない
馬場さんは被災前、津島の魅力を人々の笑顔を撮影することで表現していた。
だが、被災後は避難指示区域となり、人がいなくなった。一時帰宅しても、馬場さんしかいない。ならば、自分を撮るしかない。「そこに住んでいた自分」「被災者としての自分」を撮ることで、何かが見えてくるのではないかと直感していたのではなかろうか。
その証拠というと言い過ぎかもしれないが、「自撮りされた馬場さん」には笑顔がない。というより、表情がないのだ。笑顔に満ちていた被災前の写真とは正反対だ。
「もちろん感情がないわけではありません。むしろ、いろんな感情がわいてきて、表に出すのが難しいほどでした」と馬場さんは語る。
ただ、時に無表情ほど雄弁に物語るものはない。津島は「笑顔」から「無表情」のまちに変わったのだった。
写真集の中の馬場さんは、防護服に雨合羽のスタイルで、荒れた屋内を片づけ、お気に入りの服を引っ張り出し、2階の窓から津島を見る。
自宅が雑草に呑み込まれていく様子も見つめる。
自宅の正面に設けたバリケードの前に立ち、「あと、何回来られるだろうか」と考える。
田んぼには身長をはるかに超えた草木が生い茂り、かつての面影などどこにもない。皆と一緒に作業をして、休憩中にお茶を飲みながら談笑したのが嘘のようだ。










