東京電力福島第一原発の事故で帰還困難区域となった福島県浪江町の津島地区。今もまだわずかな土地でしか避難指示が解除されていない。道路脇にはあちこちにバリケードが設けられ、「この先帰還困難区域につき通行止め」と記した黄色い看板が立つ。
だが、元小学校教諭の馬場靖子さん(83)がまとめた写真集『あの日あのとき 古里のアルバム 私たちの浪江町・津島』(2024年10月15日、東京印書館発行)をめくると、かつての津島の風景には潤いがあり、人々は笑顔にあふれていたことが、よくわかる。
ところが、東日本大震災から14年が経過し、馬場さんの口から説明されるのは、笑顔が消えた人々の悲しい消息だった。
人々がにこやかに談笑…稲刈りの休憩時に撮影した一枚
「稲作の写真でコレって言われると、やっぱり表紙です」
馬場さんが微笑む。稲刈りの休憩時に撮影した一枚だ。
田んぼの脇に止めた軽トラック。その前に座った人々が、お茶を飲みながら、おやつを食べ、にこやかに談笑している。高齢者から就農間もない若者まで、馬場家の稲刈りの手伝いに来てくれたのだ。後ろの田んぼには天日乾燥させるための「はせ掛け」の稲架が一列に並ぶ。
「この前、ここに行ってきました。十何年ぶりでした。田んぼには柳の木が生え、耕作できるような状態ではありません。人が座っている辺りにも篠竹が侵出して林のようになっていました。同じ場所とは思えませんでした」
この写真集の悲しさは、かつての津島の風景が二度と撮影できないことだ。写っている8人が今なお健在であることだけが救いだった。
稲刈りの休憩時の写真でも、手伝いに来てくれた3人が夫の績(いさお)さん(80)の冗談に笑っているカットは、寂しい気持ちにさせる。前出の写真と同じように草木が生い茂ってしまったからではない。避難中に他界した人もいて、楽しそうであればあるほど痛々しく感じられる。
原発が放出した大量の放射性物質が津島に飛来
東日本大震災が起きるまで、津島がまさかこのような土地になるとは誰も考えていなかった。
原発事故が起きた当初も、政府が設定した原発から20km圏内の避難指示区域に入っていなかった。このため、浪江町役場は津島を町民の避難場所に指定し、8000人とも1万人とも言われる避難者が人口約1400人の地区に集結した。
だが、あろうことか原発が放出した大量の放射性物質は津島に飛来した。他の被災地区と比べても汚染濃度が高く、帰還困難区域に指定されて長く立ち入りが制限されてきた。
一方、浪江町の中心部から海岸にかけてのエリアでは、発災から6年後の2017年3月31日に避難指示が解除された。「津島もせめてこれぐらいの時期に帰れたら、『また農業ができたのに』と嘆く人もいます」と馬場さんは語る。