東日本大震災に伴う、東京電力・福島第一原発(通称1F)の事故から14年が経つ。1Fのメルトダウンによって、20キロ圏内のエリアは避難指示が出され、多くの住民が県内外に避難した。
当時、福島第二原発(2F)の事務員として働いていた真由美さん(仮名、40代)もその1人だ。10年以上にわたって避難生活を続けていたが、24年2月に故郷の浪江町に戻って1年を迎えた。真由美さんはなぜ浪江町に戻る決断をしたのか。
真由美さんは現在、1Fから10数キロ離れた場所に住んでいる。実家からは近いが町の中心からは距離があり、周囲には田畑が広がっている。震災前は20軒ほどの家に約80人が住んでいたエリアだが、今年2月時点では、数軒だけだった。
一人暮らしということもあり、ほとんど料理はしない。テレビの受信状況も悪く、今ではテレビを見なくなった。家にいるときは、Netflixなどを見ているという。
「この集落に戻ったのは、今のところ4〜5人くらい。私はここで育ったんですが、震災の時は結婚して富岡町に住んでいました。元夫も1Fで働いていたんですが、震災後に離婚して、子どもも手が離れたので去年の2月に帰ってくることに決めました」
真由美さんの故郷は浪江町だが、20代後半で結婚して震災当時は富岡町に住んでいた。富岡町に特に思い入れがあるわけではないが、春の夜にライトアップされる夜の森地区の桜並木が有名で、真由美さんはそれが毎年の楽しみだった。
「建物が崩れて死ぬのかな? って思いました」
震災の日、真由美さんは2Fで仕事をしている最中だった
「揺れてるときはもう終わりかな、建物が崩れて死ぬのかな? って思いました。外に避難したのですがなかなか帰れず、娘が心配で焦りが募りました。
やっと解放されたと思ったら2Fの前も大渋滞で、しかも道路に出た途端に地震でできた亀裂にはまってしまい、車を乗り捨てせざるをえなくなりました。似たような状況で歩いている人も多くいました」
それでも真由美さんは、同僚に自宅まで送ってもらうことができたという。
「娘は当時小学生で児童館にいて、夜勤に備えて家で休んでいた夫が、すぐに迎えに行ってくれました。地震があっても夫の夜勤はあり、1Fに送るつもりで夫の車で娘を連れて3人で1Fへ向かったのですが、警察に止められて建物に近づくこともできませんでした。その後は停電であり、私の両親が住んでいる浪江町の実家にも連絡がつかなかったので向かうことにしました。時間が経つにつれて、原発が大変な事になってる事が徐々にわかってきました」