浪江町の両親は無事だったが、富岡町の自宅へ戻るのが難しいこともわかってきた。

「結局、富岡に戻ってもしょうがないとなり、その日は車の中で3人で寝ることにしたのですが、『もうそろそろ逃げた方がいいよ』と近所の人に言われて、葛尾村の避難所に移動しました」

 その後も、各地を転々とする避難生活が続き、真由美さん一家は県外に避難することになり、両親とは離れることになる。

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「その後、両親は親戚がいる会津へ行くことになり、うちの家族3人は、夫の親戚の家にお世話になったり、私のおばさんの家に泊めてもらったり、転々としていました。元夫の知り合いが群馬で部屋を無料で貸してくれるということで、群馬に行ったこともあります。それぞれ1週間ぐらいですね。でも結局、避難しても仕事はないので震災から1カ月くらい経った4月中には福島県のいわき市に戻ることにしました」

 いわき市に戻ったのは、夫の仕事が見つかったためだ。原発の作業だった。

「人手が足りず、『家を用意するから戻ってこい』と言われました。『家を用意する』というのが当時のキーワードで、『戻るしかないね』となったんです。東電の関連会社が作業員を確保するためにいわき市内でアパートを1棟借りして、家賃も会社負担でした」

避難先で「補償金貰った人だよね」という偏見にさらされ…

 しかし、いわき市に戻っても生活は元通りとは程遠かった。とりわけ苦しんだのは、娘の度重なる転校と、周囲の偏見だった。

「いわき市の家に移った時、娘は小学生だったので転校しました。富岡町から震災後にいわき市の学校に転校して、いわき市内でも一度引っ越したのでもう一度転校。なかなか溶け込めなかったようです。

真由美さんが働いていた福島第二原発 筆者撮影

『原発の地域から来た人』という偏見を感じることもありました。原発事故の補償金をもらって生活しているという偏見です。ゴミを出しに行った時などに、『補償金貰った人だよね』というヒソヒソ話が聞こえてしまったり。でもあの頃もらったのは避難用に配られた100万円だけです」

 当時、いわき市は原発事故の復興作業の拠点となったことで地価が上がっていた。震災後の数年で、いわき市内の住宅地の地価上昇率は10%を超えている。

「いわき市の土地が高くなるという話を聞いていたので、上がる前に買おうとなり、震災から1年ぐらいして家を建てました。実は震災前に富岡町で家を建て替える予定だったのですが避難することになってたんです。東京電力の補償対象になったので建てたうえで、人に貸していました」