「一生引退はできないねぇ、こりゃしんどいよ」

 吉永は『映画女優』の劇中での「相撲か何か勝負の世界なら、勝った負けたがハッキリしていて、負け続けたら引退って道があるけど、役者は負けたのか勝ったのかハッキリしないから、一生引退はできないねえ。こりゃしんどいよ」という田中のセリフに共感し、俳優を続ける覚悟を決めたという。一方で《「今、自分が引退したらどうなるか」と考えてみたら、マスコミから逃げ回らないといけない。ならば、自然な形で映画の仕事をしていきたい、と思った》とも語っている(『文藝春秋』2007年2月号)。

田中絹代 ©文藝春秋

 田中絹代は43歳にして監督として自ら映画も撮るようになった。吉永もまた、40代に入ってから、自分には絵心がないので監督は無理だけれども、プロデューサーはやってみたいとことあるごとに公言するようになる。

プロデューサーへの夢

 100作目の出演映画となった『つる-鶴-』では、複数の企画から彼女が選んだということで、市川監督からあなたも半分はプロデューサーだと言われ、脚本の準備稿でもしきりに意見を求められたという。

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市川崑監督(享年92) ©文藝春秋

 その少し前の対談では、プロデューサーへの夢を語るなかで、《外の血というか、いろんなジャンルの方たちが入ってきて、またそれでチームを組んでつくってみたり、古いものを壊してみたり。むかしからのいいものは残して、いろいろそういう集合体ができていけばいいんでしょうね》と語っていた(筑紫哲也対論集『元気印の女たち』すずさわ書店、1987年)。それを実践に移すように、『つる』で吉永は自身の相手役に「既存の映画や舞台の俳優の持っている重厚さとは違う味」を求め、このころ小劇場演劇界の旗手として脚光を浴びていた野田秀樹を指名している。

日本映画はずっと“男たちの場所”だった

 その10年後、1998年公開の『時雨の記』では初めて企画段階から制作にかかわった。原作となる中里恒子の同名小説を読んで以来ずっと映画化したいと思っており、ほかの人が希望していると耳にするや、出資してくれそうなところをリサーチして動いたという。

 この公開当時、吉永のなかには、このままでは日本映画は滅びてしまうという危機感があった。同作のキャンペーン中、トークショーなどに出ては、自分を育ててくれた日本映画をどうしても明日につなぎたいと訴え、その明日への夢として《日本映画の現場はずっと“男たちの場所”だった。だから私は、監督もプロデューサーもスタッフもみんな女性。女性だけの力で次を作ってみたい。その夢のためだったら、私はもう女優の役でなくたっていい。スタッフの一員でも、それでいい》と力強く語っている(『AERA』1998年11月16日号)。