一審判決が古荘前頭取にあまりに同情的すぎたのに比べ、より公正だが、それでも「借りたもん勝ち」の印象はぬぐえない。さらに2年後の1965年3月16日、最高裁で検察側の上告が棄却され、無罪が確定。
同日付朝日夕刊でミノブは「無罪は確信していましたが、法律的に認められて、こんなにうれしいことはありません。一審で意外な結果が出ましたが、二審からは厳正な裁判を受けられたと思っています。また貿易や不動産の仕事を続けたい」と語っている。
保釈中に不正融資絡みで逮捕
しかし、ミノブは一審判決後、保釈中の1962年7月、東京・亀有信用金庫の不正融資に絡んで逮捕されていた。
事件発覚後はまた入院していたが、病院から警視庁防犯部に連行された。こちらでは1966年7月に懲役1年2月(執行猶予3年)、罰金20万円の判決を受けている。この間、週刊誌や雑誌に時折生活ぶりなどが取り上げられた。見出しをのぞいただけで記事の大体は想像がつくだろう。
「虹は消えなかった! 不死鳥・坂内ミノブという女」「“白い魔魚”は生きている」「破産宣告を受けた坂内ミノブの豪華な生活」「無担保で12億円借りた女社長の魔力」……。
古荘四郎彦は1967年10月24日、肝硬変のため83歳で死去したが、ミノブについては1986年3月の「週刊新潮」が消息を伝えた最後のようだ。“伊皿子御殿”も「宜雨荘」も手放し、家賃60万円の都心のマンションを1500万円の家賃滞納で追い出され、長男のマンションにいるという。「いまでもちゃんと本宅があるんです。事業ももう一度起こそうと思って、都心に真っ白な大理石のビルを10棟建てる計画を持っていますわ」と語っているが……。
元暴力団員の作家として名を売った安部譲二(故人)が1993年に出版した『欺(だま)してごめん 私が舌を巻いた5人の詐欺師たち』でミノブのことが触れられている。
1974年の晩秋、突然訪ねてきた運送業者に引っ越しの未納料金180万円の回収を頼まれ、相手が坂内ミノブと聞いて乗り出した。ミノブの娘が通っているお嬢さん学校に車で乗り付け、「お母さまにお金を払うように伝えて」とスピーカーで“放送”。ミノブと電話で怒鳴り合った挙げ句、“金利つき”で回収した。
最後にこう書いている。「もう70も半ばを越したというのに、最近会った男の話では、元気どころか、意気軒高としておいでだという」。「週刊新潮」と同じころの話か。その後の彼女の消息は伝わっていない。