手記を依頼したのは「婦人公論」の編集者だった三枝佐枝子で、『女性編集者』(1967年)で「おそらく私が会った女性の中で、いちばん不思議な人である」と振り返っている。
これに同じ「婦人公論」の翌7月号で森脇将光が「『森脇メモ』の中にいるあなた―レインボー女社長に抗議する―」と反論した。「森脇メモのレーダーに映ったあなたの生活というものは、あまりにも奇怪で、健康な常識では、どう解釈しようもないものであった」と指摘。
ミノブの千葉銀行に対する「犯罪的な手口」や、数多くの借財、未払金を列挙して「(手記を)知らない人が読んだら、ああ、坂内ミノブという方はきれいな心を持った方だ、それを多くの世の愚か者たちがよってたかっていじめているのだ、気の毒なものだと印象されるような一文を、文学少女のようなタッチで、急所急所はあいまいにして書いているのだから、大したものである」と皮肉っぽく書いた。
ミノブが公判の引き延ばし?
古荘前頭取とミノブが起訴されたのは選挙から約2カ月後の7月26日。問われたのは商法違反(特別背任、預け合い)と公正証書原本不実記載、同行使だった。同日付朝日夕刊によれば、「レインボー」の事業が不振に陥り、不渡り手形を乱発するようになったため、4年前ごろから約束手形を現金とみなして銀行に入れる違法な「みなし金」処理をしていた。
さらに融資回収の見込みもないのに1955年1月から翌年12月の間に計133回にわたり、不当に低額な担保で計4億4863万円を融資。銀行に損害を与えた。朝日には腎臓病で入院中の古荘前頭取の「私にやましい点はない」との談話も載っている。
その後のミノブについては、毎日の翌1959年2月16日付夕刊「ニュースのゆくえ」で「膵臓炎と胆嚢炎の併発」で東京都内の病院に入院中と報じられ、2月28日付朝刊では、ミノブの弁護人2人が辞任。後任が決まらないまま公判が延期されていることから、担当の東京地裁刑事十三部の伊達秋雄裁判長が国選弁護人の選任を弁護士会に委嘱したと書かれた。公判の引き延ばしを図っているとみたのだろう。
伊達裁判長は直後の同年3月、「砂川事件」の公判で「アメリカ軍の駐留は憲法違反」との判断を下した「伊達判決」で注目された。古荘前頭取だけが出廷した初公判は起訴から約9カ月後の同年5月4日で、前頭取は起訴状の内容を否認した。