黒地に白い藤をあしらった豪華な振袖で
「坂内被告やっと出廷」と読売が夕刊で報じたのは6月12日。「法廷に入る坂内ミノブ社長」の説明の写真を添えてこう描写している。
この日、坂内被告は定刻の午前10時を過ぎても現れず、『またか』の声が起き始めた同20分、自家用車で裁判所へ乗りつけた。黒地に白い藤をあしらった豪華な振袖に白草履。看護婦に付き添われて14号法廷に入ったが、おしろいをすっかり落として髪はやや乱れ、やはり病気らしく青ざめてやつれ気味。この日が2回目の公判だった古荘被告と久方ぶりの対面で、言葉少なに挨拶を交わし、並んで被告席に着いた。
法廷をステージのように捉えていたのかもしれない。伊達裁判長の尋問に「『事件そのものが間違っています』と低い声で起訴事実を頭から否認した」と同紙。公判はその後も続き、1961年2月7日の公判では2人に懲役3年が求刑された。同日付朝日夕刊はミノブを「50歳とは思えぬ若々しい和服姿で出廷した」と伝えた。
ミノブに懲役3年の実刑判決→無罪に
裁判が長期にわたったためか、新聞の扱いは小さくなっていた。同年4月27日に下された一審判決も、夕刊は毎日が社会面左肩4段で写真付き、読売は4段で写真付きだったが、朝日は3段で写真なし。判決は古荘前頭取が懲役3年執行猶予3年、ミノブが求刑通りの懲役3年の実刑だった。
古荘前頭取については「法律的責任は極めて重いが、46年余り、銀行家として千葉銀行を隆盛に導き、千葉県実業界の大御所として社会に大きな貢献をしてきた」「退職金や私財まで銀行に提出した」として執行猶予付きに。「信念として清廉、真実一路に終始した」とまで称賛した。一方、ミノブには「執行猶予を付ける特別な事情がない」とした。読売には、古荘前頭取が「『感謝します』と目頭を熱くして裁判長に一礼した」とある。
古荘前頭取は一審で服罪し、ミノブだけが控訴。さらに2年後の1963年11月11日の東京高裁での控訴審では原判決が破棄され、ミノブに無罪が言い渡された。同日付朝日夕刊によれば、理由は「借受人は銀行とは全く立場が違うから、背任の共犯が成立するためには、借受人が銀行役員と同程度に任務違背の認識がなければならない」と判断した。
「銀行業務の素人である坂内被告に背任共謀の認識はなく、実際の貸付状況も、(ミノブ側から見れば)貸付額とほぼ同額の担保を差し入れていた」として「事件全体を古荘被告の単独犯行と判断した」との内容だった。