『ものごころ』(小山田浩子 著)文藝春秋

「不思議の国のアリス症候群」を知っているだろうか。周りのものや自分の身体が実際よりも過剰に大きく感じたり、逆にすごく小さく感じたりする病気で、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』の中でアリスが薬を飲んで大きくなったり小さくなったりするシーンにちなんで名づけられた。錯視・錯覚の一種なのだが、小さい子供が時々この症状にかかる。まれに成人になっても発症する患者もいるが、多くは一過性で特に身体や脳に大きな影響はなく、大人になると次第に治まっていく。要するに子供がごくまれに起こす脳のバグで、なんでそうなるのかはあまりわかっていないらしい。

 私は子供のころ、時々この症状を発症していた。家で一人で本を読んでいるときなんかに、突然、指がマッチ棒みたいに細く感じたり、頭がボールみたいに膨れ上がっているように感じた。痛みなどはなく、しばらくすれば治まるのであまり困った経験はないのだが、少し厄介だったのは平静時よりも感情の揺れ幅が大きくなることだった。しかも通常ならば怒られると悲しい、褒められると嬉しいのように原因と感情が対応しているのだが、その状態になると壁が四角いと悲しい石が転がると嬉しい、のようになんだか因果がよくわからなくなり、しまいには風が吹いていると喜びが襲ってきて光が目に入るとものすごく悲しくなる、というように感情の乱反射が起こり、軽い吐き気を覚えた。一番大きいのは不安で、かといってパニックになるほどではなく、私は脳が剥き出しになったように感じて、おおおおおと思いながらその症状が治まるのをうずくまりながらじっと待っているのが常だった。

 なぜこんな説明をしたかというと、この本を読んで久しぶりにそのときの感覚を思い出したからだ。この『ものごころ』は芥川賞作家の小山田浩子が近年発表した九つの小説をまとめた短編集である。その特徴は何らかの形で子供のころの感覚に触れている点と、それを超細密といっていいほど細かく描いている点だ。ストーリーはトンボの羽化をみる、犬を助ける、海へ磯遊びに出かける、のようにいわゆる平凡な日常なのだが、羽化するトンボの翅の様子や血を流して川に倒れこんだ濡れた犬の毛の質感などをものすごく詳細に描写しており、しかも、匂いとか手触りとか音とか光といった五感の感覚をさりげなくしかし執拗に読者へ届けてくるものだから、私はなんだか感覚が加速してオーバーフローしてしまい、次第に脳が剥き出しになる感じがし、子供のころ感じていた感情の乱反射を思い出した。最終的には「口から吹き出た乾パンの粉が光に漂う」描写だけで涙が流れてきたのだが、それは感動したとかそういうわけではなく、脳が剥き出しになってしまったからだ。なんだかものすごいものを読んだなと私はわけもわからず泣きながら思うのだった。

おやまだひろこ/1983年、広島県生まれ。2010年、「工場」で第42回新潮新人賞を受賞しデビュー。13年、『工場』で第30回織田作之助賞を受賞。14年、「穴」で第150回芥川龍之介賞を受賞。著書に『庭』、『小島』、『最近』、『パイプの中のかえる』、『小さい午餐』など。
 

どうぞのまさひこ/1983年、東京都生まれ。歌人。歌集に『やがて秋茄子へと到る』がある。歌書書評ブログ「短歌のピーナツ」。