『Nの逸脱』(夏木志朋 著)ポプラ社

 なぜ本を読むのか――そう問われた読書家がしばしば口にする答えがある。

「現実では経験できない体験に身を浸したいから」

『Nの逸脱』を読み終えた今、私はこの答えに疑問を抱いている。本当に私たちは「特異な体験」を求めているのだろうか。フィクションを楽しむときですら、実は「ジャンル」という名の予測可能性に安住しているのではないか。

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『Nの逸脱』は「場違いな客」「スタンドプレイ」「占い師B」という3つの短編から構成される作品集だ。バラバラの設定と人物でありながら、タイトル通り「逸脱」という共通項で結ばれている。

「場違いな客」では爬虫類ショップで働く主人公が不審な客との出会いを契機に異質な世界へと足を踏み入れていく。「スタンドプレイ」では生徒から虐げられる高校教師がストレス発散のために行った行為が思わぬ波紋を広げる。「占い師B」では中年占い師のもとに現れた奇妙な弟子志願者との間に生まれる、不可思議な関係性が描かれる。

 本作の特徴は「二重の逸脱性」にある。1つは物語内での日常からの逸脱だ。主人公はふと表通りを外れ、未知の事態に直面する。そしてこの逸脱は、彼らに自分自身の隠れた側面や気づかなかった本質を露呈させる契機にもなる。

 しかし、そこに覆い重なっているもう1つの逸脱こそ、本作の真の独自性と言えるだろう。それは「ジャンルからの逸脱」である。

 読者は、無意識のうちに「これはスリラーなのか」「ミステリーの伏線か」「ヒューマンドラマへの着地か」と、既存のジャンルの型に当てはめようとする。登場人物が悲惨な過去を独白すれば「なるほど、これは感動を誘う物語なのだ」と思い、そのための脳に切り替えてしまう。だが本作は二転三転し、様々なジャンルを横断しながら、どの枠組みにも収まらない展開を見せる。それはあたかも、安心するために本を読む読者を鼻で笑っているかのようだ。

 どの短編も緊張感とツイストに満ちており、1ページ先の展開すら予測できない。落ちながらもなかなか地面に衝突しないような、ムズムズとした感覚。この浮遊感は、作中の主人公たちの心境とも呼応している。

『Nの逸脱』は、日常の「型」からの脱出と、文学の「型」からの脱出という二重の冒険を提供する。「えっ、これってどういう話?」と戸惑いながら、ときに荒唐無稽にも思えるこの物語がなぜか強烈に「リアル」に感じられるのは、本作のノンジャンル性が巧みに機能しているからだろう。現実もまた本質的にはノンジャンルなのだ。私たちは区分けを作ることで安定を得て退屈を享受している。その境界に穴を開け、混沌を流入させる本作は、希望でも絶望でもない「そうだよな」という不思議な感慨を与えてくれる。

なつきしほ/1989年大阪府生まれ。大阪市立第二工芸高校卒。『ニキ』でポプラ社小説新人賞を受賞しデビュー。同書を改題し文庫化した『二木先生』が15万部突破のベストセラーに。
 

しなだゆう/作家。ダ・ヴィンチ・恐山名義でライターとしても活動。最新刊『納税、のち、ヘラクレスメス のべつ考える日々』。