『ことぱの観察』(向坂くじら 著)NHK出版

 ページを繰ると、まえがきに突如、テストの解答用紙のような空欄が現れる。

「さて、お誘いです。わたしが定義を試みたうちのいくつかの言葉について、ぜひはじめに定義を考えてみてください」。呼びかけられた私は並べられた単語を眺め、おおっと難題だぞ、とわくわくし始める。「友だち」「敬意」「やさしさ」「ときめき」……みなさんなら、どう定義する?

『ことぱの観察』は、詩人の向坂くじらさんがウェブマガジン「本がひらく」で書き継いだエッセイをまとめたものだ。連載のテーマは「毎回ひとつの言葉を定義すること」。定義とは言葉の意味を定めることだ。

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 国語辞典を引けば、専門家によって、すでに言葉は定義し説明されている。しかし、くじらさんはそうしたレディメイドの定義ではなく、「わたし」のオリジナルな定義を書こうと提案する。「ことば」ではなく「ことぱ」と呼ぶのも、いったんリセットして新しく考えることを促されるようで、くすくす楽しい。

 くじらさんは、生活の中でその言葉がどんなふうに使われているのか、日々の記憶をたぐり寄せ、言葉の輪郭を引き直してゆく。それは、これまで何を考え、何を大切にしてきたのかという、生き方と結びつく。

「言葉がわたしの中である意味をむすぶとき、そこにはわたしの記憶や、経験や、痛みや喜びの手ざわりが、どうしようもなくまとわりつく。そしてきっと、他人の使う言葉には、彼らの記憶や、経験や、手ざわりが、同じようにまとわりついている」(「観察」より)。

 たとえば「さびしさ」を定義するときには、小学生のころ綿矢りさの『蹴りたい背中』を図書室でむさぼり読んだこと、クラスメイトの星くんが授業中にトランプタワーを作り始めたことを回想する。泣き出した星くん、そのふるえる手や放り出された黒い眼鏡を見ていたわたしの心をなぞりかえし、導き出されたくじらさんの定義はこうだ。

「さびしさ:他人や自分の中で起こっているできごとのかえようのなさ、分けあえなさを、ときにその内実に先立って感じ取ること。そうして、他人と自分とが離れた場所にあるように思うこと」(「さびしさ」より)。

 他者の領域を侵さず自分にも嘘のない言葉。繊細で誠実な定義に体温が通う。かつて私も〈寂しいと言い私を蔦にせよ〉という俳句を作ったが、恋しい相手に絡みつきたかった私のさびしさは、くじらさんのさびしさよりアグレッシブに見える。言葉は「わたしたち」共通のツールだが、それを使う「わたし」はそれぞれ誰でもない個であり、人の数だけ言葉の定義があり得るのだ。

 おまけに。本編には、ひとつの単語ごとに、同じ題名で書いたくじらさんの詩が添えてある。詩もまた定義の一つの答えだ。散文の緻密、詩の曖昧を携えて、言葉の森を歩きたい。

さきさかくじら/1994年、愛知県生まれ。詩人。ポエトリーリーディング×エレキギターユニット「Anti-Trench」の朗読担当。「国語教室 ことぱ舎」代表。著書に、詩集『とても小さな理解のための』、小説『いなくなくならなくならないで』(芥川賞候補)など。
 

こうのさき/1983年、愛媛県生まれ。俳人。現代俳句協会常務理事。著書に句集『すみれそよぐ』、エッセイ『アマネクハイク』など。