オウムからの嫌がらせと実行犯らの国外逃亡
しかし、決意を揺るがす異変は翌週から始まった。私や当時の『週刊文春』デスクはじめこのオウム真理教取材に関わった者の自宅にビラを突っ込まれたり、玄関に泥を塗られる等、警告ともとれる嫌がらせが続いたのである。その後記者として関わった江川紹子さんはあの新實に自宅に殺傷能力の極めて高いホスゲンガスまで撒かれたのである。当時のオウムはすでに警察、自衛隊、法曹界から我々の同業者の中にまで信者を浸透させ、坂本弁護士の自宅住所を村井に伝えたのもオウムの在家信者の現役弁護士だった。
坂本弁護士一家殺害現場に“プルシャ”と呼ばれるオウム・バッジや指紋を残した村井、早川ら実行犯は、熱したフライパンに指先や手のひらを押し付け指紋を消そうとしたという。のち暑くなったにもかかわらず、公衆電話をかける際も軍手を脱ごうとしなかった早川を私は目撃し、不審に思ったことを覚えている。
麻原は坂本弁護士一家殺害事件の実行犯の村井、早川らを連れ、ドイツに出発、すわっ、国外逃亡かと、私一人だけが日本から追いかけたが、当時の西ドイツの首都、ボンのオウム支部に着いたとき麻原一行らはアメリカに渡ったあとで、もぬけの殻と散々であった。
政治団体を立ち上げ衆議院選挙に出馬するも、全員落選
麻原らは渡航中、神奈川県警の動きがないと見るや、帰国した。坂本弁護士一家殺害事件が失踪事件とされ、報道機関や、捜査機関からも不問にされたことで、真理党なる政治団体を立ち上げた。その党首に納まり、1990年衆議院選挙で自身は東京4区(当時)から、さらに幹部信者らを都内や近県の他選挙区に次々立候補させるも、当然全員落選、供託金も没収された。
夫婦ともどもにこやかに笑っているカットは1990年衆議院選挙開票直前に、何を根拠にか大量当選を確信していた麻原一家は気が大きくなったのか、『週刊文春』の取材と知って招き入れた時である。この直後、全員落選と悟り、不愉快な表情になったが。
麻原はこの選挙結果を反省材料にするどころか、日本政府による投開票操作の陰謀と決めつけ、テロによるクーデターでの政権転覆しかないと、さらにその暴走に拍車をかけていくのである。