「これほどの規模のアーケードはそう見ないのではないか」
ともあれ、名こそ改めても実は譲らなかった。松山市駅はその後も松山随一のターミナルとして存在感を高めてゆく。
いまでも中心繁華街は松山市駅がいちばん近い。銀天街のアーケードを東に進み、途中で北に折れて千舟町通りを渡ると大街道のアーケードに引き継がれる。人通りの盛んな賑やかな商店街で、飲食店からカラオケ店、パチンコ店などが建ち並ぶ。
大街道アーケードを歩き切った最終盤、東西の脇道に入ると、こちらにはスナックの類いがひしめく歓楽街ゾーン。五木ひろしの「夜明けのブルース」でも歌われた、四国でもいちばんの歓楽街・二番町である。
大街道のアーケードの終点には百貨店の三越がある。入口には伊予鉄道松山市駅と一体の高島屋があって、長いアーケードを抜けた先には三越が。二大百貨店を両端に持つ、これほどの規模のアーケードはなかなか他の都市でもないのではなかろうか。
大街道を抜けた先では再び路面電車が通る国道へ。いくつもの大きなホテルが並んでいて、松山城へのロープウェイ乗り場もほど近い。坂の上の雲ミュージアムも大街道の出口のすぐ脇だ。目の前の路面電車に乗って東に行けば、道後温泉にも10分ちょっと。実質的に、この大街道の北の出口あたりが松山でいちばんの中心といっていい。
それにしても気になることが…
しかし、である。なぜ松山の中心は、JR松山駅からこれほど離れたところにあるのだろうか。いくら歴史に違いがあっても、松山市駅に乗り入れているのはローカル私鉄の伊予鉄道の郊外線と路面電車だけだ。
それが四国最大のターミナルになり、その脇から続くアーケードが賑わう。そのナゾの答えを、ここでも歴史に求めてみたい。
現在の松山の中心地は、言うまでもなく松山城下町が原形だ。藩政時代、松山城の南側(大街道方面)には上級家臣の屋敷が並び、東や北は中下級家臣が暮らす町。商業エリアは城の西側で、いまでは古町と呼ばれる一帯だった。いまでも古町には小さな路地に沿って古い商店街が続く。
ところが、人口の増加によって城下町は拡大し、現在の大街道や銀天街を外縁として新たな町人町、商業エリアが出現する。これが、現在の中心繁華街にそのまま繋がっているのだ。