「先生、下からどんどん上手な選手も出てきてるし、私もう限界かなって思うんです」
この時の井村コーチからの返答は、今も二村さんの胸に刻まれている。
「あんたの限界はな、あんたが決めるもんちゃうねん。あんたの限界はな、私が決める」
この言葉を聞いて、「先生がそんなふうに言ってくれるんだったら、ついていくしかない」と気持ちを改めた二村さんは、シンクロに没頭。その数カ月後、日本代表に選出される。
16歳で日本代表になった二村さんは、名古屋とメキシコで開催されたパンパシフィック水泳選手権に出場。2大会連続で3位に入った後、「もう思い残すことはない」と競技の世界から離れることを決めた。
「先生、本当にありがとうございました」と挨拶に行ったとき、井村コーチは2年前と打って変わり、穏やかに受け入れてくれた。
大学に進学すると、「シンクロに恩返しをしよう」と、小中学生のジュニアチームのコーチを始めた。さらに20歳になる頃には、シニアの指導も手掛けるようになる。
当時から「私にはシンクロしかない。ずっとシンクロに携わっていきたい」と考えていた二村さんに、大きな転機が訪れる。8歳年上の男性と恋に落ち、20歳の時に学生結婚。「白馬に乗った王子様が来たと思った」というバラ色の結婚生活はしかし、23歳の時に長女を出産した頃から少しずつ色褪せ始めた。
死を考える日々
きっかけは、感覚のズレ。例えば、男女平等は当たり前で、女性にも教育や子育てをしながら仕事ができる環境が必要だと考える二村さんに対して、「なんで働きたいの?」「女の子はいい人と結婚するのが一番の幸せ」という夫。
こうした価値観の違いによって徐々に大きくなっていたひずみが決定的な断絶になったのが、結婚13年目。夫の裏切りが発覚してショックを受けた二村さんは、心を患う。
「私はシンクロしかしてなくて恋愛経験もなかったから、自分にそんなことが起こると思ってなかったんです。そのストレスが原因で、パニック障害になってしまって」