母の尚子さんは「商才があるタイプ」(二村さん)で、書店の経理など経営面を担った。店を法人化した時の代表に就いたのも、尚子さんだ。
お客さんへの対応や本にかける愛情、商売として本を売る実力を見ると、両親の遺伝子が二村さんにしっかりと受け継がれたことがわかるだろう。しかし、その遺伝子が覚醒するのはもう少し後のこと。
本に囲まれて育った二村さんだが、夢中になったのは中学校1年生の時に水泳教室「浜寺水練学校」で始めたシンクロナイズドスイミングだった(現在のアーティスティックスイミング。ここではシンクロと記す)。
「友だちのお姉さんが、シンクロしてはって。その友だちから一緒にやろうって言われて始めました」
浜寺水練学校のシンクロチームはAからEチームまであり、新人はEチームからスタートする。Bチームに上がった中学3年生の時のコーチが、選手を引退したばかりの井村雅代さん。指導者として1984年のロサンゼルス五輪から6大会連続で日本代表にメダルをもたらし、さらに中国代表監督としても2008年の北京五輪と次のロンドン五輪でメダルを獲得した日本シンクロ界のレジェンドである。
「うちの母って、すっごい怖かったんですよ。『100点を取ろうと思ったら、120点を取るつもりで勉強しないとあかん、99点やったらあかん』というタイプだったんですけど、井村先生はその母よりも厳しくて、最初はもう、その怖さにびっくりしたんです。でも、井村先生はほんまに公平なんですよ。一生懸命練習する人間を、ちゃんと見てくれる。だから、頑張ろうって思えるんです」
16歳で日本代表へ
しかし、高校1年生でAチームに進級してから間もなく、二村さんは引退を考えた。
シンクロでは、高身長でスタイルの良い選手が重宝される。そのほうが、見栄えがするからだ。ひとつ下には、その条件を兼ね揃え、後にロス五輪でメダルを獲得する元好三和子選手が入ってきた。158センチで身長が止まり、それをハンデに感じていた二村さんは、後輩たちから追い抜かれる前に辞めたいと思うようになった。ある日、意を決して井村コーチに告げる。