『「働けない」をとことん考えてみた。』(栗田隆子 著)平凡社

 なぜこの国には、働けない者がいるのか。働く能力はあるのに「働けない」とみなされたり、必死に働いているにもかかわらず周囲から「努力が足りない」とされたりして、一方的に「戦力外」とカウントされてしまう者がいるのか?

 本書の真髄は、日本の労働市場や制度設計がいかにマジョリティである「働ける者」を基準に作られているかについてや、マイノリティである「働けない者」にまつわる多くの視点を、新たにマイノリティ側から立て直すことにある。

 際立つのは、著者である栗田自身の圧倒的な周縁者ぶりだ。栗田が指摘するこの国の「普通」とは、〈日本に住む日本人、日本語話者、健常者、異性愛者でシス(生まれた時に診断された性別と性自認が一致している人を指す)男性、さらには首都圏出身などなどといった「マジョリティの詰め合わせ」みたいな存在〉。対して栗田自身は高学歴だが不登校経験のある正規雇用経験が希薄な未婚女性であり、バイトをしながら文筆活動を続けるも障害年金を受給し、生活保護を受けたこともある、文字通りの不安定労働者である。そして、そんな徹底的に社会から周縁化された立場と視点からしか出ない言葉は、読み手が無意識に座る特権の椅子を否応なく可視化する。中でも驚かされたのは〈「無断欠勤=絶対許されないこと」という頭の固さは資本主義社会の中ですらいいこととは思えない〉というパワーワードだ。

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 いや無断欠勤を是とする者はさすがに戦力外カウントだろう……と、貧困当事者の不自由を代弁せんと願って著作を重ねてきた評者ですら、反射的にこう思った。シフトを組む社員やバイトリーダーからすれば、無断欠勤のバイトが出れば、穴埋めに自身がパートナーや家族との約束事をキャンセルしてでも出勤しなければ、現場が回らないではないか。だが、あくまで「働けない/働かない」の理由を、個人ではなく社会の構造上の問題として炙り出さんとする栗田の筆致に触れる中で、そんな「当たり前」は次々揺らぐ。

 バイトひとりの無断欠勤で回らなくなる現場とは何か? そのようなギリギリの人的リソースで回る現場であることで得をするのは経営者であり資本家の側ではないのか。彼らの都合になぜ労働者が合わせねばならないのか? そもそも、無断欠勤という言葉から評者の脳裏に浮かんだのがなぜ「バイト」であり、困る主体はなぜ社員やバイトリーダー、つまり適応できるマジョリティなのか。

 同著者による『ぼそぼそ声のフェミニズム』(作品社・2019)の時もそうだったが、栗田が発する問いは、角度が異次元なのだ。働くことの困難と疑問を抱え続けてきた周縁者だからこそ、かつ女性問題や労働問題の知見を社会運動の中で培ってきた栗田だからこその鋭さで、多くの「当たり前」に疑義の視点を立てる。

くりたりゅうこ/1973年生まれ。文筆家。大阪大学大学院で哲学を学び、シモーヌ・ヴェイユを研究。その後、非常勤職や派遣社員のかたわら女性の貧困や労働の問題を中心に執筆。著書に『ぼそぼそ声のフェミニズム』、『高学歴女子の貧困』(共著)など。
 

すずきだいすけ/文筆家。子どもや女性、若者の貧困問題をテーマに活動。最新刊は『貧困と脳 「働かない」のではなく「働けない」』。