――それで長期のお休みを取ることに。

白井 なんとか会社と交渉して3カ月休めることになり、荷物をまとめて実家へ戻りました。それまでは年末年始に数日、しかもまともに話もしていなかったので不安もありましたが、母親とは子どもの頃にはしなかったような雑談ができるようになりました。父とはあまり話しませんでしたが、束の間の穏やかな家庭の時間を経験しました。

 きょうだい児についても母に伝えたのですが、母は知らなかったものの話を聞いて怒ることもなく「そうなんだ」という感じで。ただ、穏やかだったのは1カ月間だけでした。

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――何があったのでしょうか。

白井 僕の休みが2カ月目に入る頃に、母親の癌が発覚したんです。すぐに手術をしたのですが、手術後に双極性障害を発症してしまって。今度は母親が「ケアされる人」になってしまったんです。双極性障害の診断を受けたのがちょうど僕の休みが残り1カ月を切る頃でした。

「自分は大切にしてもらった記憶がほとんどないのに、なんで僕は…」

――お母さんはどんな様子だったのですか。

白井 躁状態の時は深夜でも早朝でも「良いこと思いついた」と電話をかけてきて、「私が働けば1億ぐらいすぐに稼げるから、ここに障害者用の施設を作るの!」とまくしたてるんです。そのまま業者さんに連絡しようとするくらい激しい躁状態で、なだめるのが大変でした。

 言動から、兄や障害者への執着に近い愛情をあらためて目の当たりにした瞬間でもありました。

――話を聞いてあげるだけでも負荷が大きそうです。

 

白井 長年ため込んでいた感情も制御がきかなくなって、姑に対する恨みが溜まっていたのか、親族や友人でも「姑」の立場にある人に対する攻撃的な態度がすごかったですね。

――お母さんのケアは主に白井さんが?

白井 この時はさすがに父も掃除や洗濯くらいはするようになりましたが、母に寄り添う雰囲気を私は感じられませんでした。

 父は料理ができないので、僕が料理を作って父には皿洗いを担当してもらったのですが、「俺が家事をやるなんて屈辱的だ」という雰囲気を全身から出していて。洗ったお皿を乱暴に置くので割れたこともありました。

――白井さんの仕事復帰の時期も迫ってきますよね。

白井 母の介護のために休みを延長するか悩んだのですが、ある時子どもの頃のことを思い出して「自分は大切にしてもらった記憶がほとんどないのに、なんで僕は仕事を休んでまでこの人たちのためにご飯を作っているんだろう」と思ってしまって。そこで「普通の家族を体験したい」という気持ちが完全に切れました。