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ワタクシはどんなジャンルの音楽も聞かないし、まったく関心がなく、お店のBGMですらいまいましく思うほど、心の中が荒蕪の地のように殺風景きわまりない人間で、ホントは音響機器など必要ないのだが、ごく小型のコンポは置いてある。
なぜかというと落語がないと生きていけない人間だからだ。それほど落語は生活の一部になっていて、趣味を超えている。車の中でも落語のCDを聞くし、寝るときもスマホにヘッドフォンのスタイルで落語を聞く。でないと不眠症がひどくなるタチで、落語は依存症にはなるが、副作用のない睡眠薬だと思っている。
なので『京の茶漬』も暗記するほど聞いている。ためしに、桂 米朝師匠の『京の茶漬』を聞きながら、あらすじのポイントを拾ってみることにしよう。
落語『京の茶漬け』のあらすじ
京都の得意先をよく訪れる大阪の商人がいて、帰りがけになると必ずそこのおかみさんが、「なんもおへんのどすけど、ちょっとお茶漬けでも」と声をかけるのだが、茶漬けなど出たためしがない。
そこで、腹を立てた商人が、「よし、いっぺんあの茶漬けを食うてこましたろ」と商用にかこつけて昼時に得意先にやって来る。
あいにく主人は留守で上がり込んで待つことにする。その間、おかみさんと雑談をし、茶漬けのことを匂わせた会話もするのだが、おかみさんは気づいていないそぶりをする。何度も駆け引きをしながら話題を茶漬けにもっていこうとするのだが、おかみさんはそしらぬふりを続ける。
