ケチでセコいのは京都より大阪ではないか
つまり、「ちょっとお茶漬けでも」というのは、おかまいもできずにすみませんというあいさつで、そういわれたら訪問者は「いえいえ、こちらこそ長居してしもうて。そろそろ帰ります」という符牒のようなものなのだ。
ただし、この符牒もどきみたいなやりとりも作り話で、京都にはそんな慣習はない。この噺の真偽を行きつけの酒場のおかみさんに聞いたところ、
「お客さんに対して、いくらなんでもそんなお茶漬けみたいな恥ずかしいもん、出されへんわあ。かえって失礼や。それに、昔もいまもお茶やら飲み物を出すとしたら茶菓子を添えるくらいちゃうの」
というご返事でしたな。ケチな大阪人のワタクシもまったくその通りやと思いますわ。
事実、京都のみならず江戸の大店でもふだんの食事は質素なもので、客に食べてもらえるような料理など出さなかった。商売上、無碍にはできない大切な人なら仕出し弁当を出すことはあっても、そもそも、どんな土地でも、昼時に家を訪ねること自体、失礼・無礼な振る舞いとされてきたはずである。
これが常識というもので、ごくふつうに考えると、非常識なのは大阪の商人ではないか。大阪育ちの僕のような人間なら、この落語は京都のイケズをいじっているのではなく、たかがお茶漬けを食べたいがために京都まで訪ねていく大阪の商人のほうが、よほどケチでせこいことを伏線にしていると理解できる。