誤解その1「軍歌は押しつけだった」
軍歌をめぐるもっとも大きい誤解のひとつが、「軍歌は政府や軍部の押しつけだった」というものだ。たしかにそういう軍歌があったのも事実だが、それだけでは一面的な理解になってしまう。
むしろ軍歌の多くは、民間が自発的に作る「売れる商品」だった。戦時下には戦争に関する音楽が流行りやすく、そこに商機があったのだ。日清戦争では、軍歌集が飛ぶように売れ、「殆ど紙価を狂はしむ」とさえいわれた(『音楽雑誌』47号、1894年9月)。
昭和に入ると、その傾向はいっそう強くなった。満洲事変や日中戦争が勃発すると、それまで一般的な流行歌を作っていたレコード会社は、一転して軍歌をつぎつぎに送り出した。
ヒットメーカーが作り、人気歌手が吹き込んだ軍歌は、ときに数十万枚も売り上げた。これは今日のミリオンセラーに匹敵する(当時のSPレコードは製造コストが高かった)。
政府、軍部、企業の「ウィン・ウィン」関係
それだけではない。新聞社や出版社もこれに便乗し、たびたび軍歌の歌詞を懸賞公募して、みずからの存在をアピールした。読者も一攫千金を狙って、この募集に殺到した。なんども応募を繰り返す、「投稿職人」さえあらわれた。
以下は懸賞公募軍歌の一例である(カッコ内は募集社名)。
「爆弾三勇士の歌」(大阪毎日・東京日日新聞社)、「肉弾三勇士の歌」(大阪朝日・東京朝日新聞社)、「出征兵士を送る歌」(大日本雄弁会講談社)、「空の勇士」(読売新聞社)、「奉頌歌『靖国神社の歌』」(主婦之友社)。
このように軍歌はある種のエンタメであり、ポップスであり、メディア・イベントで華々しく生み出されるものでもあった。
政府や軍部は時局の宣伝をしてほしい。企業や業界人は時局で儲けたい。そして民衆は時局を消費したい。三者のウィン・ウィン・ウィンの関係のなかで、軍歌はあまた生み出された。だからこそ、その数は1万近くにのぼったのである。