ステージ復帰を決意、夫の神田には「ひどい嘘」も…

 結果的に彼女は早々に復帰を決意する。きっかけはある日、夫の神田が仕事に出かけたあと、家で一人で何となく自分のコンサートのビデオを見ていると突然訪れたという。のちに彼女は次のように振り返っている。

《それで見てたら、はっとなんか目から鱗が落ちるような感じで、「あれっ、私、なんで今ここに、こんなふうにいるんだろう」って、突然思ったんですよ。そう思ったらすごい悲しくなってきちゃって、「これはいけない」って。(中略)歌わなくちゃって思っちゃったんですね。それでスタッフに電話をして。主人はいい顔はしなかったんですよ、「エッ」って。だからスタッフにも一緒に説得してもらって。レコーディングだけです、テレビもツアーも出ません、あなたがいない時間だけ仕事しますって。今思うとひどい嘘ですけどね(笑)》(『月刊カドカワ』1995年7月号)

 結局、結婚して約2年間の休業中、シングルこそ出さなかったが1986年6月にはアルバム『SUPREME』をリリース、10月に長女の沙也加を出産後、その年の暮れには同作でレコード大賞の最優秀アルバム大賞を受賞している。デビュー以来出場を続けてきたNHKの紅白歌合戦には前年もこの年も出場した。出産からわずか2ヵ月でレコ大と紅白のステージに立つなど、いまではちょっとありえないだろう。

松田聖子『SUPREME』(1995年)

 そのまま1987年にシングル「Strawberry Time」で本格復帰すると、5~6月にはコンサートツアーも行っている。翌1988年には、東京・自由が丘に開店したブティック「フローレンス・セイコ」が盛況をきわめ、さらに9月にリリースした「旅立ちはフリージア」が、1980年の3rdシングル「風は秋色」以来24曲連続となるオリコンのヒットチャート1位を獲得した。全米デビューの話が持ち上がったのは、そんなふうに安定した人気を保つなかでのことであった。 

次の記事に続く 紅白落選、全米デビューに「幼い娘を置いて」と批判も…「つらい。帰りたい」当時26歳の松田聖子を襲った“試練の数々”

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