観客が胸を打たれることは――

 しかし、こうも思う。そもそも「片思い」は理屈によって割り切れるものではなく、かならずしも因果関係が介在しない情動によってもたらされるものだ。そして、理屈ではなく情動に――目の前の誰かに、たまらなく心を揺り動かされる過程に――焦点を当て続けることに、この『片思い世界』という映画の賭金はあるのではないか。

©2025『片思い世界』製作委員会

 私たちが抱く「片思い」は、成就せずに終わることも多い。そして、そのような着地をした「片思い」に実利的なメリットがあるのかと問われれば、恐らくはないだろう。ただ、それでも――。私たちが誰かに思いを伝えようとすることに、意味がないなどということはできない。『片思い世界』は、筆者が抱くそうした思いの、確かな礎となる。本作では、彼女たちが誰かに思いを伝えようとする、その真摯さにこそ打たれるのである。

 美咲が、彼女を救えなかったことに葛藤を覚えている典真のもとに近づき、「典真のせいじゃない」と伝えようとするときの表情。優花が、母である彩芽の家を訪れ、「良かった、幸せそうで」と口にするときの表情。さくらが、かつて自身の命を奪った増崎に対して、「返せよ、返してくれよ」と叫ぶときの表情……。言葉の裏にある心情はそれぞれ異なってはいるものの、いずれの言葉にも、目の前の相手に対する強い思いが宿っている。そして、「両思い」の萌芽とともに、彼女たちの純度に満ちた「片思い」の強さに触れることで、観客もまた心の振動を覚えるのだ。

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 やがて3人は、新たな旅立ちを迎える。これまで暮らしていた家を出て、東京の街角の中に紛れ込む。新しい家の場所や内装のプラン、またそこでとる理想の食事について意見を交わす彼女たちの姿は、道行く人たちの目に触れることはない。しかし、彼女たちの軌跡を追ってきた観客は、路上にはたしかな温かみが宿っているように感じるだろう。

 それはいわば、誰しもが自身のうちに抱える、心の灯のあらわれである。誰かに届く以前の「片思い」であろうとも、その温かみ自体はけっして否定することができない。『片思い世界』は、「両思い」の萌芽と「片思い」の両義性を――一抹の寂しさと、それを抱く温かさを――通して、人間と不可分な感情の尊さを高らかに謳いあげる作品である。

(※)「コトバンク」の以下のページを参照。https://kotobank.jp/word/%E7%89%87%E6%80%9D%E3%81%84-463317(最終閲覧:2025年4月27日)

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