「経営不振から精神がおかしくなり……」
町の人たちの話によると、鎌輔は全国の温泉場の番頭を転々。1935(昭和10)年ごろ、塩原町古市の旅館の番頭になり、当時同旅館で女中をしていたウメさんと結婚した。1940(同15)~1941(同16)年ごろ、知人の紹介で山口県の軍需工場の支配人になったが、戦後再び塩原町へ。「いそや旅館」の番頭となった。客扱いがうまく人気があり、小銭を貯めて1953(同28)~1954(同29)年ごろから、現在の日本閣の場所に「清月」という芸者置屋を開業。2~3年してホテルに改築して開業した。
その際の改築費などで借金した300万円がその後の運営に大きく響き、1959年ごろには180万円の負債でどうにもならず、約半年間、精神状態がおかしくなって宇都宮市内の病院に入院したという。ウメさんは昨年初めごろから夫とカウが急速に親しくなったのを見て二人の仲を疑ったらしく、よく夫婦げんかをしていたという。
同じ栃木の2月24日付によれば、1957年ごろ、宝くじで50万円を当てたのが鎌輔を旅館経営に踏み切らせる動機になったという。21日付栃木の記事は続く。
得体のわからぬ男
大貫は鹿沼市生まれ。各地を転々として1958年ごろ、風呂番として日本閣に住み込んだが、1カ月で辞め、その後、カウと知り合った。定職がなく、観光客の荷物運びや土工などをしていたが、昨年5月には窃盗容疑で逮捕された。ウメさん失踪についても調べを受けたが決め手がないまま釈放。それ以来ますますカウに接近し、日本閣にもたびたび出入りしていた。決まった住居がなく“得体の分からない男”で通っていたが、今年になってから急に金回りがよくなり、洋服や時計を新調していたという。
「日本閣」そのものについても記述がある。
「二、三流の旅館」とみなされていた日本閣
日本閣は町の中心から約1キロも離れ、箒川を隔てた橋向こう。裏手は山林で寂しい所だ。ウメさんの失踪以降、工事中止となった建物が屋根と柱とわずかな周囲の工事のまま、ひっそりとしている。この土台工事のコンクリートの中にウメさんの遺体が埋められたといううわさがもっぱら。町民たちは“お化け屋敷”と呼んで怖がっている。
栃木新聞社編集局編『栃木年鑑 昭和37年版』によれば、日本閣は室数16で収容人員は一般100人、団体150人と小規模。日本閣のある塩原・福渡温泉は神経痛、リウマチなどに効能がある弱食塩泉だが、日本閣は温泉を引き込む権利を持っておらず、「二、三流の旅館」とみなされていたようだ。
時代は前年の1960年、「60年安保」の大きな流れが過ぎ、岸信介首相退陣の後を受けた池田勇人首相は「所得倍増計画」をぶち上げた。高度成長の波に乗って、日本各地の温泉に多くの客が来訪。旅館も新築・増改築で鉄筋コンクリート造りが増える。道路が整備され、鉄道以外でも大型バスで客が来るようになり、温泉は「湯治場」から観光温泉地へと変貌していく。事件はそんな時代背景の中で起きた。

