「旅館経営をしてみたい」と日本閣乗っ取りを考えた
捜査本部の調べによると、カウは1959年暮れごろ、同じ宗教団体の信者同士として鎌輔と知り合った。間もなく、うわさ通り、日本閣の経営が苦しいことを知り、「埼玉県に時価200万円の土地を持っている」として共同経営を持ちかけた。
当時、カウは物産店と喫茶店兼食堂を経営。繁盛していたため、鎌輔も信用し、何かと相談相手にして、2人は急速に接近したらしい。そのころからカウは知人にも「塩原にいるからには旅館経営をしてみたい」と漏らしていた。本格的に日本閣乗っ取りを考え、それにはまずウメさんを殺すことだと鎌輔を誘惑。日頃から親しくしていた大貫を使って3人でウメさんを謀殺し、遺体は日本閣の敷地内に埋めた。
ところが鎌輔はそのショックと経営不振が重なって精神病院に入院。退院したが、よくならないまま、今年正月ごろ、カウと大貫に殺されたらしい。昨年の大みそかに見かけた人がいたが、それ以降、消息を絶っていた。
事件の全体像はほぼ見えた。栃木の記事は逮捕後のカウの表情も書き留めている。
ふてぶてしい態度
午後8時、大田原署から宇都宮署に連行された、主犯とみられる小林カウは、案外落ち着いた態度で宇都宮署中庭に回されたジープから、水沼・大田原署捜査係長に腕を取られて降り立った。薄桃色の和服に茶の縞模様のトッパー(上っ張り)、束髪で紅をさした顔はどう見ても40歳前後にしか見えない。申し訳程度にうつむいて取調室に連行され、約1時間にわたって調べを受けたが、ほとんど口を開かなかった。取調官の問いに対しては、はっきりと顔を上げて相手を見つめるふてぶてしさだった。
下野、栃木両紙ともカウの連行写真を掲載。栃木は事件の当事者3人の経歴にも触れる。
“養子縁組”で伏線 男関係にもスゴ腕
近所の話を総合すると、小林カウは埼玉県熊谷市生まれ。1955(昭和30)年10月、漬け物の行商で塩原を訪れ、そのまま住み着いた。その間、1958(同33)、1960(同35)年にはエロ写真を売って大田原署に逮捕された。若づくりの美人、しかも多情で男関係は多かった。1959年には大田原市の資産家と結婚。1週間で離婚して多額の慰謝料を取った。昨年5月には養女(26)を鎌輔と養子縁組させたが、これも世間をごまかす伏線だったとみられる。
