小林カウは10代で水商売に足を踏み入れたが、酒好きなのと多情のため、勤め先を転々と変えた。一時結婚生活に入ったが、長続きしなかった。中年になって事業欲が激しくなり、熊谷市で食品などを扱って小金を貯め始め、漬け物「風味漬」を持って塩原町の物産店に売りさばきに来たのが1955年の春だった。
小ざっぱりした身なりで、年に見えない若さが男たちの関心を呼び、粘りの商法で成功。間もなく福渡に5年計画で家を借り、物産店「なかや」を開店して足がかりを固めた。危険を顧みず観光客相手にいかがわしい土産物をがめつく売りつけ、金が貯まると、旅館経営者になるのを夢見て、目の前で開業した日本閣に目をつけた。
下野の記事は続く。
「色と欲に激しい性格異常者」「男関係でも愛情はカケラさえなく…」
今回の事件にショックを受けた地元の人々は「高橋お伝」らの毒婦物語のヒロインを思い起こし、話題の花を咲かせている。元日本閣女中の話によると、カウは欲が深すぎて、東京から来た人物に出資話で金をだまし取られたこともあるという。色と欲に激しい性格異常者だったカウは「隣近所の評判は悪く、お金の話になるととてもがめつく、私たちの給料の遅配も間々あった」「旅館の増築に夢を抱いて、よく設計図や見取り図を描いており、欲の深いカウと計画性のない鎌輔との口論はよくあった」(元女中の話)。
男関係でも愛情はカケラさえなく、事業欲からの交渉で次々男を替えていた。殺人の現場で長期間平気で一人暮らしをしていたことは常人の神経をはるかに超える。利用され“消された”鎌輔も精神に異常を来したが、「鎌輔がああなっていなければ、カウに狙われてもこんな事件は起こらなかっただろう」という地元の声もあり、2人の異常者の接触が生んだ惨劇だった。
「高橋お伝」とは明治初年、金目的に男を殺して斬首刑に処され、実録小説や講談などで「毒婦」と騒がれた人物。カウを「塩原(の)お伝」と呼んだ週刊誌や雑誌は多いが、それはまんざら根拠がないわけでもなかったようだ。
積み重ねられる「毒婦伝説」
「週刊新潮」1961年5月15日号によると、群馬県出身のお伝は逃亡中、一時カウの母親の実家近くに隠れており、カウの母親をだっこしたことがあるという。カウは取調中にも机の下で検事の脚に手を伸ばしたとか、着物のすそを開いて係官に見せたなど、「毒婦伝説」が積み重ねられた。
この日の下野は、「ウメさんの死体も見つかる」が見出しの記事が社会面トップ。日本閣から南西約100メートル入った雑木林で白骨化した遺体が発見されたと伝えた。同じ日付の栃木には大貫の立ち合いで行われた発掘作業の写真が3枚載っている。
