ここで中村がぼそっと「もしかして手を戻すつもりかな?」と言った瞬間に永瀬が垂れ歩を払った。「粘る手は当たります」と中村が笑う。桂得して手番が来ては、さすがに藤井が良くなっただろう。ところが、局面を眺めているうちに容易でないことに皆が気付いた。朝日新聞のYouTube中継に出演していた阿久津が戻り、「8六歩が輝きすぎてキツイんですけど。(藤井側を持って)まとめる自信がないなあ」。

控室での検討の様子

 桂を渡しても、手番を渡しても、形勢は渡さない。永瀬の「負けない将棋」に皆が感嘆した。

「藤井さんの1分は、他の人の10分と同じですよ」

 両者とも残り時間が1時間を切った。マラソンのような長い長い戦いの中、想定外のコースを走らされ、藤井がきつそうな表情になる。やがて16分の考慮で桂を打ち下ろした。銀取りだが銀を引いたらどうするのか? 永瀬だから当然引くだろうな。ところが銀を前に出て、桂にぶつけた。

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「えっ、出た!」と広瀬が叫び、「これ大丈夫なの」と阿久津も驚く。再びどよめく控室。永瀬は銀を取らせ、その代償に金を取ったが、その貴重な手番を失った。やがて広瀬が藤井良しの手順を盤上に並べる。

 藤井が打った桂を跳ねて王手、銀を打ち込み金と換え、その金を打ち込み飛車と交換し、そして飛車を打つ。王手と同時に9二の香取りだ。46手目に手待ちで上がった永瀬の香が121手目に飛車打ちでとがめられるとは! すべての駒の配置が藤井を勝たせるように吸い寄せられている。

 藤井の桂馬が、永瀬を惑わせたのだ。

 

 藤井の残り時間が6分から一向に減らない。

 中村が「まだ6分もあるの?」と驚けば、広瀬が「藤井さんの1分は、他の人の10分と同じですよ」と返す。

 中村は「2日間ずっと神経戦が続いて、永瀬さんは潰されないように慎重に指しましたからねえ。疲労も溜まっていたでしょう」と永瀬の心境を慮った。永瀬は自陣に金を打ってまで粘るが、藤井の指し手は冷静で、やがて取った香を金取りに打ち下ろす。これで決まりだ。永瀬は一分将棋の秒読みとなり、詰めろに飛車を打った。自陣にも利かしていて金を取られても詰まない。だが、しばらくして広瀬が「あれっ、詰みがありますね」と気付いた。