――一番多感な時期に見た映画ってすごく心に刺さって、それと一生歩み続けるという感じは、皆さんの話を聞いていると共通性があるなと思っているんですけれども。
蓮實 単にわたくしが多感な時に見たということ以上の力が、ドン・シーゲルにもリチャード・フライシャーにも、あるいはロバート・アルドリッチにも漲っています。ところが、そのいずれもアメリカでは一級品としては評価されてない。わたくしから見れば一級品も一級品だというのに……。もう一人、これは古典的なハリウッドのラオール・ウォルシュという、これも活劇の達人といわれている人がおります。世評のように、彼は必ずしも活劇だけを撮っていたわけではなく、無名だが素晴らしい映画をたくさん撮っている。にもかかわらず、アメリカ人は評価しない。許しがたいことです。『私の彼氏』(1946)という素晴らしい音楽映画があるんですけれども、これもニューヨークでやってやろうと思っています。「こんなに素晴らしいものを、お前さんたち田舎者は、知らねえじゃねえか」とニューヨークに殴り込みをかけようと思っているのです。ですから、それは単に自分の感性が豊かだった時代に見た映画の中の素晴らしさというのとは違った、もっと普遍的な意味での優れた作家たちなんです。
多くの映画監督を生み出した授業
――僕は先生の授業を受けてから「どこでカットを割っていたか」「何が見えているのか」を常に意識的に見るようになりました。でも、そこを見ていかないと映画の監督なんかできないですよね。
蓮實 それはそうだと思います。
――そういう意味で、先生の授業から映画監督が何人も出てきたというのは、その見方を教えたということが一番大きいんじゃないかなと思います。
蓮實 そうかもしれません。そんなにお役に立てたかどうかは分かりませんけれど、ただやっていて途方もなく楽しい充実した授業でした。この人たちには何かある、何かを持っていると確信がもてたし、実際、彼らのほとんどは優れた映画作家になってくれました。授業は、まず初めに200人くらい学生がいるのですが、だんだん少なくなっていく。けれども、ある時からだんだん数が限られてきて、それ以来、一挙に減るということはなくなるわけです。そうすると、その人たちが何かやる感じがきわだってくる。実際にその人たちの映画を上映してみると、どれもこれもが素晴らしい。あれはいったい何だったんでしょうね。1970年代の終わりから80年代の初めにかけての立教大学における映画活動は、映画史的な事件だといえるかも知れません。昨年、韓国で立教の8ミリを上映したんです。
――そうなんですか。それは知らなかったです。
蓮實 ある時、全く知らない韓国の人から不意にメールが来て、「パロディアス・ユニティ」(注1)の映画祭をやりたいと言う。
――面白いですね。