宮崎さんはその先輩を頼るかたちで渡満を決意。父親は反対したが、宮崎さんは野球への情熱を貫くことにした。昭和19(1944)年1月、満洲へと出発。当初は渡満に反対していた父親も、餞別として真新しいハーモニカをプレゼントして送り出してくれた。
宮崎さんは満洲電電の系列会社の野球部に入り、そこでも投手になった。満鉄の野球部や、朝鮮の「オール京城」といったチームと試合をしたという。寂しい時には、父親からもらったハーモニカを吹いた。「故郷」「誰か故郷を想わざる」といった曲を自然と選んでいた。
「敗戦は当然」と思ったワケ
昭和20(1945)年5月、宮崎さんは現地で応召し入隊。満洲国の綏芬河(すいふんが)という場所で初年兵生活に入った。綏芬河はソ満国境の地である。宮崎さんは陣地構築などの軍務に追われた。山砲(さんぽう)を分解して山上まで運んだり、ソ連軍の動向を観測する任務などにもあたった。
上官からの指導は常に厳しいものだった。宮崎さんの右肘は幼少時の怪我の影響で少し曲がっていたが、そのことが災いしたという。
「銃剣での訓練などの時、『肘が伸びていない』というので軍曹から怒られるんです。よく殴られましたよ。いじめられましたね」
8月9日、ソ連軍が満洲国に侵攻。ソ連と国境を接する綏芬河にも緊張が走ったが、宮崎さんの所属部隊が駐屯していた山中は、主戦場から1キロほど離れていた。宮崎さんは戦闘に参加することはなかったという。程なくして8月15日を迎えたが、宮崎さんが終戦を知ったのはそれから1週間ほど経った頃であった。
「私たちの部隊は、8月下旬になって『どうやら戦争が終わったらしい』ということで、ようやく山を下りたんです」
敗戦について宮崎さんはこう語る。
「当たり前だなと思いましたよ。というのも、関東軍は次々と南方へと転出して行き、満洲に残っているのは私のような初年兵か、もしくは年取った補充の兵ばかりといった状況でしたから」