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「許すことはできない」当時9歳、テーブルの陰に隠れて父の銃撃死を目撃した…「二・二六事件」被害者の娘が語る、時代を超える怒り

『テロルの昭和史』#3

2024/01/20
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 令和4(2022)年7月8日に起きた安倍晋三元首相銃撃事件。今こそ、テロが連鎖した昭和初期に学び、私たちがどんな時代の曲がり角に立っているか見据える必要がある――。

 ここでは、昭和史研究の第一人者である作家・保阪正康が昭和テロリズムを読み解く『テロルの昭和史』(講談社)より一部を抜粋。

 1936年2月26日の明け方、およそ1500人の陸軍下士官・兵士が首相官邸、警視庁などを襲撃して占拠した「二・二六事件」。犠牲になった侍従長の鈴木貫太郎と陸軍教育総監の渡辺錠太郎、それぞれの娘たちの言葉から、昭和のテロが遺族にいかなる怒りを生んだかを見る。(全3回の3回目/最初から読む)

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「二・二六事件」から短命政権が続いた理由

 近代日本を様々な形で救った長老を、旋風のように襲い、何の会話も交わさずに殺害するその残虐さは、テロとクーデターの動きが、無表情の下で一切のコミュニケーションすら放棄する冷酷さに至ることの現れでもあった。

 二・二六事件がたどり着いたテロの結末とは、一体何を物語るのだろうか。次の三点をひとまずの「負の三要素」と見る社会的ルールが確立しなければならないと思う。

 1 テロの行き着く先は、社会病理の蔓延である。

 2 決行者の「正義感」が異様な形で歪んでいく。

 3 テロ、クーデターを利用する政権は暴力的になる。

 二・二六事件でひとまず暴力の季節は終わった。しかし実は昭和10年代を俯瞰すると、「負の三要素」を引き継いだ軍事政権が生まれ、暴力礼賛の政治が時代の正面に出てくるのである。

 二・二六事件の残虐さはテロの行き着く先を示すことを論じたが、それが生粋の軍事政権が生まれる理由になったという見方は決して誤りではあるまい。二・二六事件から太平洋戦争開始に至る時期に中心的役割を果たす東條英機軍閥政権の誕生までの5年8ヵ月間に、どういう内閣が誕生したかを見ると、いくつもの歴史的教訓が浮かんでくる。

 広田弘毅、林銑十郎、近衛文麿(第一次と第二、第三次)、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政と6人が続くのである。つまり延べ8回政権が変わったわけだが、その平均期間はおよそ9ヵ月と3週間というところである。あまりにも短命である。なぜこんな事態になったのか。

 理由は簡単だ。陸軍が自らの政策が通らないとなると、内閣を潰したからである。「陸海軍大臣現役武官制」という刃を使って内閣を倒したり、親軍的な人物に内閣を委ねると気ままに内閣の更迭を急いだりしたのであった。二・二六事件そのものは失敗したかに見えたが、その実、軍事機構の指導者は事件を利用して、軍事独裁政権への道を進んだのである。