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 実際に邸内に入った襲撃班は2人の将校と6人ほどの下士官、兵士であった。

 表門が開かないので、裏門から入り家の中に入ると、夫人が「あなた方は何をしようというのですか。用事があるなら玄関から入りなさい」と諭している。少なくとも陸軍の主要幹部の一人だから、青年将校や兵士にとってはこんな形での面会自体が異様であり、夫人も家族も納得しがたかったのであろう。襲撃班はそういう夫人を突き飛ばした上で、襖を開けた。寝室であった。すると中から威嚇のピストルが撃たれた。布団の中の渡辺と襲撃班の間で撃ち合いがあり、やがて渡辺の抵抗は止んだ。

 布団の上から軍刀でとどめが刺された。こうして渡辺はテロに倒れた。

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 鈴木と渡辺の襲撃時の様相をあえて比較的細かく記述したのは、「昭和のテロが遺族にいかなる怒りを生むか」ということを確認するためである。二・二六事件そのものが国の行く末を大きく変えていった理由に、暴力への恐怖と怒りがあり、それを最も具体的に裏付けるのは、遺族の怒りの感情の側に国民が立たなかったことがあるからだ。私は鈴木貫太郎の孫娘に当たる鈴木道子、そして渡辺錠太郎の娘である渡辺和子の二人には、「時代を超える遺族の怒り」を詳しく聞いている。それを紹介しておかなければならない。

 それは、昭和のテロの傷跡が現在にまでつながっていると考えられるからだ。

鈴木貫太郎の孫が語る事件への思い

 鈴木道子は現在(2023年)92歳になる。元気に日々を過ごしていて、私の各種の講座にも出席してくれている。彼女はもっか鈴木家の昭和史を執筆中でもあり、そこでは祖父がテロに出合ったことの恐怖を語っている。もとより道子は当時まだ5歳の幼児にすぎなかったが、父の一は農林省の官僚で、それだけに一族には不安と恐怖が広がったという。

 鈴木は確かに血の海の中にいた。顔は土気色になり、脈は衰弱し、出血は止まらない。

写真はイメージです ©AFLO

 鈴木の元には次々と医師団が訪れた。自宅の一室が病床に変わり、そこで体内にとどまっていた弾丸が摘出された。絶対安静の時期が2週間ほど続いて、やっと鈴木は回復した。

 まさに奇跡であった。5月中旬、鈴木は天皇の前に進み出て無事であることを報告している。

 道子によるならば、祖父の貫太郎の身体が強健だったこともあり、危機を脱したことは家族だけではなく、執事や秘書官、さらには天皇側近の人々と、多くの人に喜びをもって迎えられた。「歴史の上では、今も私は祖父が亡くならなかったことは、まだ陛下にお仕えしなければならないとの神意ではなかったかと思います。現場にいた人たちは、あのような状況で亡くならなかったことに誰もが驚いたというのです」と現在も語っている。

 安藤輝三の出身地にある郷土資料館に、安藤と並んで鈴木のコーナーを作り、歴史の怨念を超えて、という展示を行いたいとの申し出があった時に、作家半藤一利と私は、道子から相談を受けた。もう10年ほど前になるだろうか。私たちは「鈴木さんのお考えは?」と逆に問うた。

「釈然としませんね。被害と加害が混乱しているのではないですか」

 その答えのなかに、二・二六事件の被害者の存在を正確に把握してほしいという強烈な思いを感じ取ることができた。