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「なぶり者にされた娘の気持を考えると泣かずにはいられません」花嫁修業中の妹まで…宗教団体「死のう団」への特高警察の“むごすぎる拷問”

『テロルの昭和史』#2

2024/01/20
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 令和4(2022)年7月8日に起きた安倍晋三元首相銃撃事件。今こそ、テロが連鎖し軍事が席巻した昭和初期に学び、私たちがどんな時代の曲がり角に立っているか見据える必要がある――。

 ここでは、昭和史研究の第一人者である作家・保阪正康が昭和テロリズムを読み解く『テロルの昭和史』(講談社)より一部を抜粋。市民が国家に抵抗するために集団自殺した「死のう団事件」と、そこに至るまでの背景について紹介する。(全3回の2回目/続きを読む)

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あまりに異様な「集団割腹」

 永田鉄山刺殺事件(1935年8月)の半年後に二・二六事件(1936年2月26日)が起こるのだが、その10日ほど前の2月17日午後、東京市内で奇妙な事件が起こった。国会議事堂前、宮城前広場、外務次官邸前、内務省3階、警視庁前で5人の青年が一斉に割腹自殺を図ったのである。彼らは「死のう、死のう、死のう」と繰り返しながら、ビラを撒いた。その後、座り込んで、所持した短刀で腹を切った。いずれも未遂であった。いわゆる「死のう団事件」である。

 この事件はテロとクーデターの相次ぐ時代を象徴する意味を持った。知識人が、中島健蔵(編注:大学講師、著書『昭和時代』に当時の社会に満ちた緊張感について書いた)に見られるように暴力への恐怖を持つのとは対照的に、庶民のなかからは、そういう時代を逆手にとって、自らの存在を暴力によって表現する、突出した行為もあったのである。

 死のう団事件は通常のテロとは異なり、いわば国家のテロに対して身を斬って抵抗した姿であった。この事件の裏側には意外な事実がいくつもあり、国家がバランスを失う姿が如実に示されていた。

 死のう団事件は、確かに表面的には不気味であり、暴力が前面に出てくる時代の怖さも表していた。東京市内の主要な建物の前で、「死のう、死のう、死のう」と叫びながら、割腹自殺を行うのだから、異様と言えば、これほど異様なことはない。しかしこの事件を丹念に追いかけていくと、テロとクーデターの時代を象徴する内実が含まれている。

 私は、1970年代初めにこの事件を事細かに調べて一冊の書としてまとめたことがある(『死なう団事件︱軍国主義下の狂信と弾圧』)。私にとっては、ノンフィクションの1作目でもあった。それだけにこの事件については、裏の史実もすべて知っている。