官憲による国家暴力というテロリズム
結論ふうに書くことになるのだが、この事件はテロやクーデターの連鎖する時代に連なるものである。ただしそのテロリズムとは、官憲によって行われる国家暴力であった。奇妙な表現を用いるが、「逆テロ」とでもいうべき事件であった。昭和5(1930)年から11(1936)年までのテロとクーデターの時代に、官憲側(この場合は特高警察ということになるのだが)もテロリストと同様の心理状態、行動形態になっていったということでもあった。
思想犯に対する取り調べ自体、思想犯を時代の空気の写し絵のように仕立て上げるものでもあったのだろうが、特高刑事のなかには時代の空気のなかでテロリストと同様の心理状態になってしまう者も存在したということである。
死のう団と言われる宗教団体に集まった男女の青年層は、まさにその「逆テロ」の標的になったというべきであった。
この団体の正式の組織名は、もともとは日蓮会と名乗っていたが、この頃は日蓮会殉教衆青年党と称していた。日蓮の経典、あるいは教えに直接に従うという組織であり、いまどきの言い方をするならば、日蓮の教えに対して原理主義者であろうとしたことにもなる。
彼らが口にする「死のう!」という合言葉は、「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」を時代に合わせて嚙み砕いた表現であったというのである。
この団体は東京の蒲田区(現・大田区)糀谷、さらには神奈川の川崎などを中心として青年層を軸に広がった宗教組織であった。指導者は江川桜堂という30代の日蓮主義者であった。彼は浅草の統一閣などで学ぶ一方、日蓮の経典を読破した。やがて江川は、既存の宗教団体は信仰の原点を忘れて、この世に妥協するだけの権威主義的団体になってしまったのではないかと考えるようになった。そういう考えを蒲田や川崎などの駅頭で人々に向かってひたすら説き続けた。いわゆる辻説法である。
大正末期から始まった江川の説法は、労働者や勤労学生、さらには職人など、自分の生き方を模索していた若い世代に受け入れられた。日蓮の原点に返ろうとの説法に共鳴、共感する青年が江川の周りに集まってくるようになった。
昭和4(1929)、5(1930)年には1000人余もの会員が集まったという。むろん最初の頃は、「死のう団」などとは名乗っていない。しかし会員が集まってくれば、そこに指導者グループが形成される。それだけではない。宗教団体としての法的規制も受けなければならない。
江川の日蓮会は、そういうあり方を取らず、ひたすら経典の解釈を学ぶという団体であった。当初は直接の行動はためらう集団でもあった。