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「なぶり者にされた娘の気持を考えると泣かずにはいられません」花嫁修業中の妹まで…宗教団体「死のう団」への特高警察の“むごすぎる拷問”

『テロルの昭和史』#2

2024/01/20
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「死のう」というスローガンの背景

 会員たちの街頭説法、それに経典の学習、その繰り返しだけでは運動に広がりがない、もっと全国的な団体にしていこうという声が次第に高まっていく。確かにこの頃撮影された日蓮会の街頭説法の写真を見ると、日蓮会の旗が乱舞し、さらに笛や太鼓の一団もいて派手な広宣流布の様子が窺えるのである。昭和五年の指導部に集まった会員の集合写真を見ると、老若男女が入り交じっての布教活動には活力があったことも伝わってくる。

 日蓮会の広宣流布の手法が優れていたのは、蒲田には映画撮影所があり、その現場で働いている装置や小道具係、さらには映画の宣伝マンなどが加わっていたからとも言えるのではないか。

 昭和のテロとクーデターの時代に入ると、こういう先鋭的な宗教グループのなかに、なにがしかの行動を求める者が一気に増えていくことになる。

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 加えて昭和7(1932)、8(1933)年には東京音頭が流行し、街中でレコードがかかると街の人たちは輪を作って踊り出すのである。盆踊りがごく自然に庶民の日常生活に飛び込んでいった。音頭と踊りは日常を超える世界への誘いでもある。

 さらに昭和8年ごろの特徴だが、伊豆大島・三原山で心中事件が頻発している。庶民の日々の生活に自殺とか心中などがあっさりと溶け込んできたのだ。そういう風潮に影響されたのであろうが、日蓮会にも何らかの行動を主張する一派が現れた。

 昭和8年の春、日蓮会のなかから「我々は不惜身命の精神で、それこそ死ぬつもりで広宣流布の活動に入ろう」と主張する一派が現れ、具体的な行動で全国への広宣流布を続けていこうとの方針が青年たちの間に生まれた。不惜身命をこの時代の社会的空気に合わせて、「死のう」というスローガンに集約し、その精神で全国に日蓮会を広めるために、有志が全国行脚を行うことになった。それを「殉教千里行」と名づけ、計画が練られた。

特高警察の残虐な拷問と「虚偽のテロ計画」

 昭和8年7月2日、青年部員28人が全員羽織・袴姿で、手に長旅に耐える樫の杖を持ち、頭に鉢巻きを締め、千里行の合言葉を口にして、横浜の杉田梅林に集まった。やがて金沢街道を歌を歌ったり、太鼓を叩いたりしながら行進を始めた。彼らの作詞作曲による広宣流布の歌や結束を固めるための合言葉を叫んでの行進であった。

 その合言葉は、

 我が祖国の為に、死のう!

 我が主義の為に、死のう!

 我が宗教の為に、死のう!

 我が盟主の為に、死のう!

 我が同志の為に、死のう!

 というスローガンであった。奇抜な服装に、なんとも奇妙で不気味なスローガンを唱和して行進を続けるのだから、世間の注目を浴びないわけはない。逗子の桜山で休憩をとっている青年男女に、神奈川県警の警官20人余が現れて彼らを検挙し、バス2台に押し込め、葉山署に連行した。