ソ連兵がついた嘘
中川州男大佐率いる精鋭の歩兵第二連隊などが太平洋戦線に抽出され、満洲における守備力は大きく減じていた。その後、宮崎さんの部隊は牡丹江(ぼたんこう)へと後退し、そこで武装解除に応じた。
(ようやく帰れる)そう思った宮崎さんだが、現実は残酷だった。宮崎さんの部隊は徒歩で鉄道の駅まで向かった後、そこから貨車に乗せられた。当初は、「ダモイ(帰国)」とソ連兵から言われたが、貨車が実際に向かった先はシベリアであった。
「ウラジオストクの奥地だとは思うのですが、正直、地名さえもよくわかりません。自分たちがどこにいるのかもわからないというのは、やっぱり不安なものでした」
こうして宮崎さんの抑留生活が始まったのである。シベリアでの日々について、宮崎さんの追想が始まる。
「森林を伐採する作業が、私たちに課せられた仕事でした」
この世の地獄
作業は二人一組で行われた。「ピラー」と呼ばれる半月型の大きなノコギリの両端を二人で持ち、それを引いて松や杉の大木を切る。初めはやり方もわからず、作業ははかどらなかった。しかし、1日に何十平米というノルマがあった。ノルマを達成できないと、ただでさえ少ない食事の量をさらに減らされた。友人の一人は、倒れた木の下敷きになって命を落とした。
「逃げようとしても、身体が衰弱していて動けなかったのかもしれません。むごいものだと思いましたね」
冬になると、気温はマイナス40℃まで下がった。宮崎さんは、(この世の地獄だ)と思ったという。崖に掘られた横穴が、宮崎さんたちの寝床であった。伐採作業をしている関係上、薪だけは豊富にあったため、火を絶やさないようにしてなんとか暖をとった。
抑留者を悩ませたのが、ノミやシラミだった。身体中に赤い斑点ができ、寝ている間も耐え難い痒みに襲われた。
「いわゆる南京虫がひどかったですね。あれに血を吸われるんです。とにかく痒くて痒くて」