抑留中、最もつらかったこと

しかし、最もつらかったのは、やはり食糧の不足であった。ソ連側は抑留者たちへの「給食基準」を設けていたが、実際にそれらが守られることはなかった。抑留者たちは空腹を満たすため、蛇やトカゲなど、見つけた生き物は何でも食べた。やがて皆、骨と皮だけのような身体となった。中には、逆に身体のあちこちがむくむ者もいたという。

稀に塩が支給されたが、抑留者たちは、「塩を大事にしないと生きていけない」と話し合って大切にした。自分たちでつくった小さな袋に塩を入れ、それを少しずつ舐めた。野生の松の実も口にしたが、食べ過ぎると下痢を起こした。下痢になることは死を意味した。

結局、約1000人いた仲間が翌年の春には100人ほどにまで減っていたという。近くの谷間が一応の埋葬地となったが、土が凍ってコンクリートのように固まっており、穴を掘ることもできなかった。仕方なく雪をどけて遺体をそこに置くと、やがて豪雪に埋もれて見えなくなった。

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しかし、春先になって雪が溶けると、遺体が姿を現した。腐敗した臭いにカラスなどが集まってくる。そんな群がってきた生き物たちを捕まえて食糧にした。宮崎さんを支えたのは「何が何でも帰る」という気持ちであった。

抑留者の総数は約57万5000人

抑留生活は実に3年以上にも及んだ。宮崎さんが帰国の途に就いたのは、昭和24(1949)年のことであった。ソ連極東のナホトカ港から引揚船で舞鶴港に向かった。日本の大地が見えてくると、青い松並木が目に映えた。

「シベリアで毎日、松の木を伐採していましたが、シベリアと日本の松は違いますからね。真っ青な枝をした松が、無性に懐かしかったですね」

多くの抑留者たちの「祖国での第一歩」の地となった舞鶴港は、昭和20(1945)年10月7日に引揚船の第一号となる「雲仙丸」を迎え入れて以降、引揚港として重要な役割を担った。同港は終戦から最後の引揚船が入港した昭和33(1958)年までの13年間で、66万人以上もの引揚者と、約1万6000柱のご遺骨を迎えたとされる。