「死体とうじ虫と銀バエが渦巻いている」壕を出た翁長さんが目の当たりした戦場の様子
「君たちは死んではいけないよ。将来、次の日本を背負わないといけないから。自分は同じ宗教を歩む者として言うが、捕虜になっても(米軍から)はずかしめを受けることはない」
安国寺の住職であった隊長はそう言うと懐から数珠を出し、翁長さんの首にかけた。家族に会えたら形見として渡してほしいという意味だと分かった。隊長は「あとについてくるな」と言い残し、1人皆とは別の方へ出ていった。自決したはずだという。
翁長さんはこのとき、捕虜になった。もう歩けず18歳の少年におぶわれ、ほか数名の女性たちと一緒に。壕を出たときの有様はいまも鮮明に思い出せる。
「死体の山。壕から出ると同時に、この悪臭というんですか、息ができないぐらいの死臭。死体とうじ虫と銀バエが渦巻いている。私、口を押さえたんですけどね。もう全然息吸いたくないんですよ。これ、表現ができないな、あの死臭は」
「海を見ると、波打ち際に人間の死体が続いていました」
竹やりをもって走り回っている日本兵が目に入る。彼らは米兵に次々に射殺されていった。
捕虜となって、元結核療養所の収容施設に移されるとき、移送トラックは海岸線を走った。そのときの光景も目に焼き付いている。
「糸満からずっと、海を見ると、波打ち際に人間の死体。ちょうど満潮時で浜に寄せたり返したり、人間とは思えないぐらいずっと死体が続いていました」
住民約9万4000人、沖縄出身の軍人・軍属約2万8000人、それ以外の日本軍約6万6000人、米兵約1万2500人。20万の命がこの地上戦で失われ、翁長さんが投降した6月23日、第32軍司令官・牛島満中将は自決し、ここに沖縄戦の組織的戦闘は終結した(完全な戦闘停止は9月7日)。戦前の沖縄県の人口は約49万人。県民の4人に1人がこの地上戦で亡くなったことになる。

