その司令官とて、さらなる上部組織の命令に従ったに過ぎない。住民を守らず、むしろ敵に出血を強いるため簡単に命を捧げさせ、沖縄を本土決戦準備のための捨て石としたのは大本営であり、この国の指導層の意思だった。大義を立てたならば、その前では人の命を命とも思わない酷薄さ。
こうした価値観は、現在の権力層はもう、しっかり捨ててくれているだろうか。沖縄の人々、本土の人々、大陸・太平洋に広がる多くの国の人々へそうした価値観で向かったことを、リーダーたちが総括していなければ、ふたたび同じ態度をとるかもしれない。
沖縄戦の体験談を、戦後しばらく話せなかった理由
沖縄戦は終わったとはいえ、その体験談は戦後しばらくは話せなかったという。なぜか。翁長さんの横に座る与儀毬子さんが口を開いた。
「まず、そんな余裕もなかったんです。もう食べていくのに精いっぱい」
翁長さんも、「生活苦ね」。そう言ったあと、そもそも戦闘が終わっても、まだ戦争は終わっていなかった終戦後の沖縄の、凄まじい風景を、ふたたび目の前に見るようにして話してくれた。
「車で走る道からずっと見えるんです。ほこら。ずーっとどこの畑にもほこらがありましたよ。ああここも、あそこも、家族全滅で家を守る人もいないんだ、と。お墓もないし、何もない。(生き残った自分たちだったが、しばらく)亡くなった人たちの弔いもできなかった」
住民が遺骨を収集し、慰霊塔「魂魄之塔」を建立
過去として振り返り、戦争証言を話すどころではなかった。比較的早い時期から証言をはじめた翁長さんでも昭和40年代からである。戦争で荒廃し、貧しさにあえいだ沖縄では終戦しても慰霊施設は十分になく、あちこちに遺骨が散乱、放置されている状況だった。
やがて「亡骸を踏みつけて生活するわけにはいかない」と、旧真和志村(まーじむら、現・那覇市)の村長や、翁長さんら住民が協力して、遺骨の収集が始まった。そうして、最初期の慰霊塔として、昭和21年2月「魂魄(こんぱく)之塔」が建立された。沖縄戦最後の激戦地であり、追い詰められ、逃げ場を失った人々が大勢命を落とした糸満市米須集落にある。

