毛布にくるまって抱き合ったまま…翁長さんが遺骨収集で見た遺体
「(戦後)最初に、どこで亡くなったかわからない人たちの弔いと言ったら、(遺族は)みんな魂魄之塔に集まってきたんですよね。(沖縄戦のとき、家族が)どこに避難したかわからない。無差別に落ちてくるこの人殺しの弾の雨の中、指示されたところに行ったら、住む家も何もないでしょ。結局、軍民混雑して(亡くなって)、みんな道や畑に散らばって野ざらしになったまま。同じ家族でも、どこで亡くなったかもわからない人はまだいます。今だってね」
「魂魄之塔」には、3万5000柱にものぼる遺骨が納められ、最大の慰霊塔となった。感情を抑え、表情を変えずに話し続ける翁長さんだが、遺骨収集をはじめた最初期の思い出を話すときは、言葉につまり、目をうるませた。
毛布にくるまって抱き合ったまま崩れもせずにいた遺体、髭が生え残り眼鏡もかけたまま座っている軍人のミイラ、あまりにも多くの死者に触れてきたために、そうした遺体を見ても動じずに済んだのに、終戦して6か月、米須集落で見た遺体を思い出すたび、今も心がえぐられる。
トマトが茂っていたその下には…
小さなトマトが茂っている場所があった。その下を掘ると、大きな頭蓋骨ひとつと小さな頭蓋骨が2つ出てきた。お母さんと子供2人の亡骸と思われた。それを養分として、トマトは茂っていたのだった。
「あの、子どもがお母さんのおっぱいをたたいていたのを思い出してね。震えて、最初は手をつけたくなかった。かわいそうにね、どんな思いで死んだのかね。小さいお骨から拾って、頭を置いて。で、お母さんの手足も拾って、この3つの体をね(納骨場所に)流し込むことがね、もう耐えられなくて。どんな思いで、この母子が死んだのかな。自分が結婚して、子供できたときもね、しょっちゅうこれが、思い出されて。産んで、大事に大事に育てるのに、この小さい人たちの夢も希望も、みんな摘み取って。戦争がなければどのように成長していたかねと考えたら」
