「貧しさゆえ学びたくても学びの道を断たれた南朝鮮の若者が教育無料の北朝鮮を思い憧れながら、生活のために練炭を積んだリヤカーを引く」話や、「昔、アメリカ人宣教師が朝鮮人の子どもを甘い言葉で騙して教会に連れ込み、売血のため血を抜き続けて死なせた」話など、初めて接する外国人にとっては穏やかでないストーリーばかりだった。
さらに、韓日辞典は表紙の「韓日」の「韓」の字が「朝」に手書きで書き換えられていただけでなく、その中の夥おびたしだい数の「韓」の字もすべて黒く塗りつぶされていた。北朝鮮では外国から持ち込まれた本は、すべて検閲を受けるとハン・クムニョンは説明したが、異常なまでに韓国を意識し、敵視していることを目の当たりにし、驚いた。
対日工作員によるマインドコントロール
一週間ほどの招待所生活で、どうやら殺されることはなさそうだと感じつつも先のことはまったく見えず、苛立ちと不安が日々増していった。そんなある日、私の招待所に見覚えのある中年男がやってきた。
私たちを拉致した張本人のチェ・スンチョルだった。工作船以来の再会だったが、奇妙なことに怒りよりも、ようやく何かを聞き出せる人物に会えたという、期待感、安堵感のようなものが先に込み上げた。
そんな私の気持ちを読み取ったのか、チェも緊張していた表情を崩し「会ったら、殴られるかと思って覚悟して来たが、安心したよ」と言い、「あの時はすまなかった」と謝罪するのだった。
思い返すに、これも彼らの心理作戦だったようだ。拉致直後からの死の恐怖は多少和らいだとしても、周りから具体的なことを一切知らされない、不安で心細い心理状態のところに、日本語が流暢で事情をよく知る人物(当時、私はチェ・スンチョルが日本人で、北朝鮮の協力者とばかり思っていた)を送り込む。そうすれば、自ずとその人間に依存するようになり、マインドコントロールもしやすくなるということだ。実際この頃は多くの日本人拉致被害者が老練な対日工作員のチェ・スンチョルや辛光沫によって管理・教育されていた。
チェは私に「あなたという人がぜひ必要で来てもらった」と、まるで事前調査のすえに私たちを選んで拉致してきたかのように話した。私は納得がいかなかった。拉致される前にチェ・スンチョルに会ったこともなければ、デート先に中央海岸を選んだのも、その日待ち合わせてからのことだった。前もって彼らが、私たちが海に来るのを知って待ち伏せしていた可能性はなかった。だが、拉致されてしまったあととなっては、どうでもよいことだった。ただ気になるのは、これから自分がどうなるのか、祐木子がどうなったのかということだけだった。