こういった警告はハン・クムニョンもよく口にしていた。一度は「ある者が逃走を図ったが、二個師団三万人の軍隊を動員して捕まえた」と彼は言った。当時はまさかと思っていたが、実際には同じ対外情報調査部に拉致されていた韓国の映画監督、申相玉氏が1978年12月末に招待所で奪った車で脱出を図り、数日後に捕まったという事件が起きていたことから、まったくの作り話ではなかった可能性はある。いずれにせよ彼らの威嚇的な警告は、私に「脱走は無駄な抵抗だ」と思わせるのに十分だった。

対象が日本人ならではの思想教育

 チェ・スンチョルは1978年末に私たちの前から姿を消した。何も言わなかったが、1980年に小住健蔵さんの名義でパスポートと運転免許証を詐取していることから、時期的には日本人なり代わり工作のために再び日本に潜入したのではないかと推測される。

 彼の代わりに、私たちの思想教育を受け持ったのは、対外情報調査部第二課の「教養担当指導員」だった。調査部各課の指導員は、課所属工作員2~3人を受け持って作戦任務遂行を指導・指揮する「組織担当指導員」と、工作員の思想教育を担当する「教養担当指導員」に分かれていた。

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 ハン・クムニョンはチェ・スンチョルらの「組織担当指導員」だったため、私たちの教育からは外れ、たまに様子を見に招待所に来る程度になった。教養担当指導員は、朝鮮語がある程度できるようになった私たちに本格的な政治思想教育を実施した。週に一、二度やってきては、その都度解説する講演資料を読んで党の政策などを聞かせたり、金日成・金正日の思想や理念を数日にわたって習得させる集中講義をしたりした。

 私たちは集中講義が終わると、必ず重要な抜粋部分を暗唱させられ、テストを受けた。また、招待所の本棚の中から、特定の図書と題目を指定して、熟読・要約させ、感想を書かせる「自体学習」(自習)や、招待所地区内にある映画館に行って映画鑑賞をする「映画学習」も週間計画に沿ってやらされた。

 日本人拉致被害者に対する思想教育には、対象が日本人ならではの方向性があったように思われる。

 その一つは、日本帝国主義による朝鮮植民地時代の歴史を扱うことで日本人としての罪意識を増幅させることだった。自習用教材の一つに『抗日パルチザン参加者たちの回想記』というものがあった。金日成の指揮のもと、祖国解放のために日本軍と戦ったという、元遊撃隊員たちの手記を集めたものだが、随所に日本軍の残虐行為や凄絶な戦いの場面が描かれていた。