突如自由を奪われ、独裁体制下で生きた24年……。北朝鮮に拉致された蓮池薫氏は現地でどのような生活を送っていたのか。

 蓮池氏が当時を振り返り、未解決事件の本質に迫った『日本人拉致』(岩波新書)の一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/はじめから読む)

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人あたり柔らかなスパイ養成官

 最初に私の思想教育を担当したのは、清津で会ったハン・クムニョンという、対外情報調査部第二課(対日課)の指導員だった。彼が私たちの拉致作戦を清津で指揮したことを知ったのは後日のことだ。少し日本語が話せる彼は、自分は日本に行ってきたことがある、と親しげに話しかけてきた。

 乾電池製造プラントを輸入するための北朝鮮貿易代表団の一員(これは偽装の肩書で、実際は現地工作員の指導が入国目的だったようだ)として日本を訪れたが、「首領様の配慮で」最高級の帝国ホテルに泊まったという話、ホテルの部屋で自分のベッドをきちんと整理してハウスキーパーに感謝された話、有楽町駅前でパチンコをして小遣いを稼いだ話などだった。強面だが、人あたりは柔らかだった。

 私を「先生、先生」と呼び、「日本の偉い先生と話ができて光栄だ」などとおだてあげた。そして「将来、東大生と仲良くなって北朝鮮に連れてきてほしい」と、私を日本に行かせるかのような話をしたので、詳しく聞き出そうとするとうまくかわされた。今思うに彼は対人経験の豊富なスパイ養成官だった。

帰国後の蓮池薫さん ©文藝春秋

「まずは朝鮮語を学んで、それから朝鮮のことをたくさん学んでください」と言い、自分が日本で買ってきたという、韓国語を含む5カ国語の旅行用会話集を置いていった。

韓国敵視——塗りつぶされた「韓」の字

 しばらくすると、さらに金日成総合大学が出版した留学生用の朝鮮語教科書と韓日辞典を持ってきて、本格的に朝鮮語を始めるように話した。

 といっても専門の語学教師がついたわけではなかった。最初ハン・クムニョンからハングルを教わったあとは、ほとんど自習だった。早く朝鮮語を習得し、「朝鮮のこと」を学べば、日本に帰れるかもしれないという思いから必死で勉強した。ハン・クムニョンから与えられた教材は、朝鮮語のみで書かれていたので、辞書を片手に少しずつ訳していくしかなかったが、その内容には驚かされた。