以後、蒲田撮影所の所歌となって親しまれた。もうひとつちなみに、銀ちゃんとヤスと小夏の『蒲田行進曲』(つかこうへい作)は東映京都撮影所が舞台で、蒲田撮影所と直接は何の関わりもない。
ともあれ、蒲田は田園地帯に撮影所が出来て映画の町となり、関係者も多く暮らしたり通ったりするようになって、いまに続く繁華街の基礎が形作られたのだろう。その頃には「流行は蒲田から」なんて言われたこともあったというから大したものだ。
撮影所は1936年に大船に移転してしまったが、その理由のひとつはすでに周辺に市街地ができて町工場も増えていたから。トーキー映画の時代になって、工場の音が響く町中での撮影が難しくなったから、なのだとか。ほんの15年ほどの間に、蒲田は一気に“町”になったのである。
巨大駅・京急蒲田との“微妙な距離”が生んだ数々のドラマ
蒲田駅の東口、撮影所跡地から繁華街の一角を挟んで北側には、呑川が流れている。呑川沿いを東に歩いて行けば、高架の京急蒲田駅。改札口からして高架にあって、ホームはさらにその上に2層になっているという巨大な駅だ。
京急蒲田駅の東側には国道15号、第一京浜が通る。地上時代の京急蒲田駅、ここで空港線が第一京浜を踏切で渡っていた。箱根駅伝ではいくつものドラマを生んだ、名物踏切である。
そんなエピソードもついて回る京急蒲田駅。JR蒲田駅からは歩いてざっと10分ほどといったところだろう。が、地図で見れば顔をつきあわせて向かい合っているように見えても、その間には繁華街が広がっている。
それも整然とした道ではなく、入り組んだ路地だらけの繁華街だ。慣れていないとまず迷ってしまうだろう。これから飛行機に乗るぞと大きな荷物を抱えていればなおのこと。さすがにこの蒲田の徒歩乗り換えは、不便に過ぎる。
これは地元でも長年の懸案だったようで、東急線の蒲田駅と京急蒲田駅をつないでできれば直通運転も、などという“蒲蒲線”の構想があった。なかなか具体化しなかったが、近年になってようやく進展、今年の春には整備構想と営業構想が国土交通省に認可されている。

