「後免町」の名前の由来は……
「江戸時代の初め、財政難だった土佐藩は2代藩主の山内忠義が家老の野中兼山に藩内の開発を命じました。野中兼山は物部川に山田堰を造り、舟入川などの用水路を整備して農地を増やしました。舟入川は高知城下の浦戸湾まで通じていたので、物部川上流と城下の物産をやり取りする商業地を造ろうと考えました。人に集まってもらうために、150坪ぐらいを無償提供し、年貢は永代免除、労役も免除しました。だから『御免』。途中で『後免』に変わり、明治の町村制施行時も『後免町』とされました。『ごめん』と謝っているわけではなく、免除された町という意味なんです」
シンボルロードをJR後免駅へ向かう。ごめんえきお君、ごめんまちこさん、しょうがちゃん、センベちゃんという、やなせさんが地元のために描いたキャラクター像が、やはり海洋堂の制作で設置されていた。
「やなせさんは後免駅から高知城下にあった旧制高知城東中学校、現在の追手前高校に列車で通学しました。あの頃の切符はパチンパチンと改札で切り込みを入れます。やなせさんは定期だったので、駅員に取られる前にスッと通る。これが面白かったそうです」
「もう一つ、後免駅でやなせさんに関係あるのは、第三セクター・土佐くろしお鉄道『ごめん・なはり線』です。室戸岬の少し手前の奈半利町まで運行しています。2002年に開通した時、当時の20駅全てにやなせさんがキャラクターを描きました。後免駅はごめんえきお君。『ごめん駅でごめん』というやなせさんの詩碑もあります。旧国鉄時代には列車が後免駅に到着すると『ごめん、ごめん、ごめん』と連呼しました。これを思い出させる内容です」
詩には「ごめん」が30回も出てくる。
柳瀬医院の跡地は今何になっている?
次は「柳瀬医院」跡地だ。父の死、母の再婚。弟が養子になっていた伯父宅の医院に、やなせさんも引き取られる。現在、公園になっている。
「小学2年生から18歳までの10年あまり、やなせさんはここで弟と一緒にいろんな思い出を作りました。
すぐそこに石材店があり、神社に納める唐獅子の注文を受けました。親方は何を間違ったか、ライオンを彫ってしまいます。当然受け取ってもらえず、石像は柳瀬医院に置かれました。やなせさんは弟と毎日、米のとぎ汁をかけたそうです。コケを生やして緑色にしたかったということで、愛着のある石像でした。
ライオンの石像は柳瀬医院がなくなった後も残されました。これに気付いたのが後免野田小学校の5年生でした。2002年、クラスでやなせさんに手紙を送ります。やなせさんは嬉しかったんですね。2003年、石像に『やなせライオンン』という名前をつけて、小学校に寄贈しました」

