筆者が多くの若手俳優のなかで吉沢亮が気になったのは「イケメン」としてではなかった。舞台『TOKYOHEAD~トウキョウヘッド~』(15年)でのなにげない職人っぽさであった。90年代に流行したレジェンド・アーケードゲーム『バーチャファイター』のプレイヤーたちのドキュメンタリー(作:大塚ギチ)から生まれた演劇(脚本・演出:上田誠)で吉沢は、「鉄人」と呼ばれる伝説的プレイヤーのひとり、柏ジェフリーを演じていた。ゲームの筐体を舞台に乗せ実際に俳優がゲームをする趣向で、ゲームの流れに一喜一憂する俳優たちのリアルな表情が見られた。吉沢はカリスマだけれど、ただゲームを愛する人物を自然体で演じ、街のゲーセンを中心にした世界に溶け込んでいた。
その後『百鬼オペラ 羅生門』(17年)に出たときも、なぜか全然顔が気にならない。自分の色を消せる職人のような俳優だから、アップを多用される映像よりも舞台のほうが真の実力を発揮できるのではないかと感じた。口跡がいいのも役者としてのポイントの高さだ。これは『国宝』でも生きている。
端正な顔と実直で端的な芝居がようやく合致できる役に出会ったのは、その4年後、19年の朝ドラこと連続テレビ小説『なつぞら』(NHK)だろう。ヒロインなつ(広瀬すず)の北海道時代の幼馴染にして、絵を描く精神に関してなつに多大な影響を与える天陽役に抜擢された。この役で吉沢は日本全国の老若男女にその存在を知らしめることになる。
天陽のモデルは農民画家の神田日勝。地方都市で農業をしながら絵を描く生活者で、農業にも絵にも圧倒的な熱量で力を注ぐ。あまりに求道者過ぎて早くに神に呼ばれてしまったかのような天陽の最期は、畑のなかに仰向けに倒れ込んだ姿を上空から映す画と相まってなんとも気高かった。労働者こそ最高に美しい存在であることを体現した吉沢亮が、ほどなく大河ドラマの主人公にして農民から大実業家になった渋沢栄一役に選ばれるのは必然だったといえるだろう。
吉沢亮は自身の“美しさ”をどう思っているのか
吉沢亮には「美しさとは顔貌の美しさだけではない」美とはなんたるかという哲学が宿って見える。
『国宝』では少年時代の喜久雄(黒川想矢)が大御所俳優・小野川万菊(田中泯)から「役者になるんだったら、その美しいお顔は邪魔も邪魔、いつかそのお顔に自分が食われちまいますからね」と意味深なことを言われる(田中泯の醸しだす業の深さのようなものがまたすばらしい)。
その喜久雄には生涯のライバルであり親友でもあり、歌舞伎の名門の跡取りである俊介(横浜流星)よりもいい役がつく。きれいだったからだけではない。もちろん技術あってのことだ。名門の出ではないながら喜久雄には立女形(女形の主役を演じる俳優)に必要な要素が十分に備わっていた。
立女形に必要とされる、得も言われぬ魅力とは何なのか。それは李相日監督が「主人公の喜久雄を演じるのは吉沢亮しかいない」と言った理由にほかならないのではないだろうか。
