父親はなぜ息子の空手コーチの頭を撃ったのか? そこには「恐るべき事実」があった……。我が子を無惨に殺された親、学生時代ひどいイジメに遭った者などが仕返しを果たした国内外の事件を取り上げた新刊『世界で起きた戦慄の復讐劇35』(鉄人社)から一部抜粋してお届けする。(全3回の1回目/後編を読む)
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1984年3月、事件はアメリカの空港で起きた。警察官に連れられ通路を歩く1人の男。手錠をはめられたその男はジェフリー・ドーセ(当時25歳)。前年の1983年、当時11歳の男児ジョディ・プラウシェを誘拐し性的暴行を働いた罪で裁判を受けるため護送される途中だった。と、そこに帽子にサングラスの中年男が突如現れ、ドーセに向け発砲する。銃弾を放ったのはジョディの実父ゲイリー・プラウシェ(同38歳)。息子を凌辱した犯人への報復だった。
この一瞬の出来事はドーセの取材のため空港で待ち構えていたテレビクルーに撮影され、全米に大きな衝撃を与えた。
アルコール漬け、生活を顧みないダメな父親
ゲイリーの半生は決して褒められたものではなかった。地元ルイジアナ州バトンルージュのナイトクラブの歌い手だった3歳年下のジューンを見初め、結婚したのが1969年、23歳のとき。同年、ミシシッピ州ビロクシでアメリカ空軍の衛生兵として働き始め、1970年には長男ゲイリー・ジュニアを授かる。このころからアルコールに溺れ始め、妻や乳児を省みずに外泊を繰り返すようになった。
家庭生活は崩壊し、妻ジューンが別離を意識したとき、第二子の妊娠が発覚。厳格なカトリックの家で育った彼女に「赤ん坊を捨てて逃げる」という選択肢はなく、離婚を断念する。
除隊後の1971年、妻子と共にバトンルージュへ戻り、翌1972年二男ジョディが生まれた。が、ゲイリーが地元で見つけた就職先は酒類卸売の仕事。持ち前の陽気さから酒場では重宝がられ、どこへ行っても飲み仲間たちから引っ張りだことなり、アルコール漬けの日々が続く。その後、三男、長女が誕生したものの、ゲイリーのアルコール依存は改善せず、一方でジューンはホステス、ウエイトレス、調理場の下働き、清掃スタッフなど身を粉にして家計を支えた。
そんな暮らしが10年余り続いた1983年6月、夫婦は別居状態となり、子供はジューンが育てることになる。が、事件の火種は別居前年の1982年10月から起きていた。当時のアメリカでは空手がちょっとしたブームになっており、息子らの通う小学校にも空手教室の入会チラシが配布された。同級生の母親が興味を示し、親しかったジューンに子供たちを一緒に習わせてみないかと声をかけた。彼女は精神鍛錬や規律訓練になると考え、三兄弟をまとめて通わせてみることにする。
ドーセのおぞましい「裏の顔」
当初の講師はすぐに辞めてしまい、12月からレッスンを受け持ったのがジェフリー・ドーセだ。彼は母親たちに子供たちの内なる可能性について説き、これから交流試合や各州の精鋭が集まる大会に向けてトレーニングに励んでいくといった見通しを示し、差し当たりチームメイトの親睦を深めるため、一緒にピザを食べたり映画を見に行ったりするつもりだと話した。
ほどなく教室が移転し、家が近場となったことから、レッスン後はドーセが車で子供たちを送り届けるようになった。子供たちとすっかり打ち解けたドーセは、足元でアクセルやブレーキを操りながら、彼らを膝の上に乗せてハンドルを握らせることもあったという。生徒たちにとっては良きコーチであり大事な友人。帰りがけに生徒の家にも招かれ親たちとも交流して信頼関係を深めていく。しかし、この男、実はおぞましい裏の顔を持っていた。